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東北紀行(133) 陸奥の国(東北地方)が「世界文化遺産」

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 東北紀行(133) 陸奥の国(東北地方)が「世界文化遺産」  ,





平泉藤原文化の象徴・中尊寺金色堂



古代、律令制(大宝、養老律令)が実施されてから「日本」という国名が付けられた。 
併せて、国の形や境界、地域国名、往来道路の名称が付された。

其の中で北の地、東北地方には陸奥国、出羽国という二つの地方国が置かれ、これが江戸時代まで続くことになる。
陸奥国と出羽国の領域に相当する地域を、両国の奥と羽をとって「奥羽地方」とも言った。

陸奥国の国府が仙台平野の多賀城に置かれ、出羽国の国府が庄内平野の酒田に置かれたが、ことでわかるように陸奥は「内陸国」の、出羽は「沿岸国」の傾向が見られる。

太平洋側(陸奥国)は、平野部がいわき市周辺、仙台平野、八戸周辺のみと乏しく、波も荒く海流も強いため、陸上交通は関東地方との関わりが深く「内陸国」としての歴史が綴られているのである。

一方、日本海側(出羽国)は、沿岸に庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野と、内陸部につながる沿岸平野が、ほぼ均等な間隔で存在しとぃる。 
日本海の北前船に代表されるように古代から明治時代まで、海運による京阪、近畿地方との関わりが深く、「沿岸国」としての歴史が綴られている。


古代、「陸奥国」は大和朝廷の勢力圏の北端に位置していた。
そして時代によって、陸奥の国の範囲は平安時代に入るまで定かでなく、大和朝廷が実効支配していたのはほぼ現在の福島県、宮城県の一部の範囲であって、それ以北は蝦夷(えみし)の支配する豊穣の地であった。

9世紀初頭になって、「坂上田村麻呂」を指揮官とする朝廷軍の侵攻により、大和朝廷の勢力は現在の岩手県にまで到達し、802年になって鎮守府と称する胆沢城(現在の岩手県奥州市)に移される。
その後、大和朝廷の勢力は順次北上し、10世紀半ばに岩手郡が成立して奥六郡が完成したと考えられている。

11世紀には奥州・安倍氏が大和朝廷から「六箇郡の司」と呼ばれる地位を与えられて、この地域に大勢力を築いている。
しかし、安倍氏は河内源氏の源頼義、出羽清原氏との抗争である「前九年の役」の後に滅亡し、奥六郡は出羽清原氏に継承される。

ところがその20年後、今度は出羽清原氏に内紛が発生し、これに源義家が介入して「後三年の役」と呼ばれる戦乱が発生。 
最終的に奥六郡は安倍氏の惣領であった安倍頼時の孫で、藤原摂関家の末流を名乗る「藤原清衡」(藤原4代の初代)が支配するところとなった。

その後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの凡そ100年の間、陸奥・平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張ることになる。

長治2年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立する。
永久5年(1117年)には基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。
その後、基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。

更に、天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。
屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。
奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となったのである。



※ 2011年6月、この陸奥の国・平泉地方に快挙が報じられた・・!! ,


フランスのパリで開かれていた国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、日本が推薦した「平泉」(岩手県平泉町)を、世界文化遺産に登録することを決めた。

日本の世界文化遺産としては、07年の「石見(いわみ)銀山遺跡とその文化的景観」(島根県大田市)に続き4年ぶり12カ所目になつという。

今年3月、陸奥の国は「東日本大震災」で大きい被害を受けただけに、「平泉」は被災地復興のシンボルとなりそうだ。

頑張ろう・・!、日本。
頑張ろう・・!、陸奥の国。



御拝読、有難うございました。






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東北紀行(132)只見 「六十里超え(2)」

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 東北紀行(132)只見 「六十里超え(2)」  ,
 


この辺りまで上ってくると、周りの景色を含めて遥か眼下に田子倉湖の眺めが壮大で、なかなかの絶景である。
気が付くと「六十里越峠開道記念碑」と記された石碑がドーンと座っている。

石碑には・・、
『 会越の窓開く六十里越峠開道記念碑 昭和48年9月内閣総理大臣 田中角栄 』   とあった。


今の若い人は「田中 角榮」(たなか かくえい)と言ってもピンと来ない世代が多くなっていると思うが、第64代の内閣総理大臣であった。
昭和の大政治家であったが、当時の高等小学校しか卒業していないため、秀吉に因んで彼自身「今太閤」と自称している。

仕事振りは「コンピュータ付きブルドーザー」と形容されるほど、知識量・実行力や巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。 
特に、土木建設業界には顔が利き、日本列島改造論で一世を風靡した。


新潟県柏崎市の出身で、常に大雪に悩まされる越後を妬んだ末、関東に対して・・、

その彼が・・、

『 皆さあーん。 新潟は半年も雪の孤島だ。 この雪をなくすため上越国境、三国峠の山を削って平らにする。 削った石や土を新潟の海に埋めて佐渡と陸続きにするんだ。 三国峠が平らになると、水気を含んだ冬の雲は新潟に降らないで関東平野まで行く。 海の手前で東京の野郎どもの上に雪が落ちる 』
と語っていた。

この発想は後に、「日本列島改造論」を着実に実を結ばせることになる。


この「六十里越え」をトンネルも無く、道路も細々と通じていた時代、侍の大軍団が通過しているのである。 
2009年のNHK大河ドラマで『天地人』(てんちじん)が放送されていた時期、この辺りにのガードレールに 『 天地人 上杉景勝六十里越で会津入り 』と張られた垂れ幕があったらしい。


先にも記したが、戦国期、秀吉の差配を受けたとき上杉家(上杉景勝)は、陸奥の国・会津120万石に封じられる。 
この時、上杉家と家臣団、領民込みで越後の春日山を去り、会津へ集団移民するすることになり、向かった峠越えがここの「六十里越え」だったそうである。

実際、会津側では八十里越えと六十里越えは隣接している峠道である。
先に、「 八十里 こし抜け武士の 越す峠 」と吟じたのは、幕末の長岡藩家老・河井継之助  
であったが、長岡からはやはり、「八十里越え」が近かったのであろう。


一方、時代はまったく異なるが、上杉景勝軍団は越後上越からの道程なので、こちらの「六十里越え」が便が良かったのであろう。

八十里越え」も「六十里越え」も、実際にいつ頃開削されたかは定かでないが、何れも相当古い年代から開かれていたことは間違いなさそうである。



小生も、六十里越えを間もなく通過する。 
とはいっても今はブーンと一走りでトンネルを抜けるのであるが、そして出たところは既に越後・新潟であった。


次回、「東北紀行」の終わりに寄せて・・!、




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東北紀行(131)只見 「六十里超え」

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 東北紀行(131)只見 「六十里超え」  ,






只見川水系最大の「田子倉ダム」と越後へ向かう「六十里越え」-




さて、道路すぐ脇の「水と電気の只見展示館」せ小用をしながら、内部展示物を何となく見物しながら、チョット休憩をとる。 
水のエネルギーをテーマに水車発電機の模型や水力発電等について現物展示しながら説明がつけてある。

受付窓口には品の良さそうな女性が、たった一人で退屈そうに番をしている様子なので、チョッと声を掛けてみた。

「 これから新潟・小出まで予定しているんですけど 」、地元で電源開発会社が用意してあるパンフレットを指差しながら、
「 そうですね、途中、田子倉ダムから六十里越えという険しい山道がありますが、30分もあれば充分でしょう。 ダムを眺めるのに、いい展望所もありますよ 」と親切におしえてくれた。



国道を走っていると先ず正面に小規模の只見ダム、そして次に巨大な田子倉ダムが衝立のように接近してくる。 
早速、ダムの右側より急な上りが始まった。 

越後三山只見国定公園『六十里越峠』と書かれた看板を見ながら、急勾配、急カーブが連続するタイトな道を高度を一気に上げて山道を登って行く。 
そして、急に視界が開けた場所に出た。 

「ハハーン、さっきのお姉さんが言ってたところかな」 既に車が数台も止まっていた。
この先は、スノーシェッドや小さなトンネルが続く。 

スノーシェッドは、鉄骨やコンクリートでつくられている光の届くトンネルのようなものであ
ろう。
雪解けや大雨で小規模の崩落は常なのであろう、崩落工事による片側交互通行の箇所もあり、かなり急勾配の上りで尚且つ円を描くような大曲小曲りが続く。 



ところで、ここ六十里越えの難所に鉄道が走っていた。 
JR只見線である。

元より、会津側、越後側(小出)両側の途中までは早い段階で開通していたらしいが、田子倉ダム建設に伴い機材、資材の輸送用として1971年(昭和46年)に「六十里越え」を貫通させ、両県がつながったらしい。 
其のほとんどの部分はトンネルの中を走るが、当初の目的駅である「田子倉駅」が湖面に沿って表に出ている。 
ただし、駅構内の駅舎はシェルターに覆われている為展望はきかないし、冬季は停車しないそうだ。


国道252号は豪雪地帯を走るため、冬季(年により異なるが、11月下旬から翌年5月中旬まで)には通行止めとなる。 
従って、只見線は越後・会津を結ぶ、唯一の交通手段となる。 

このような特殊事情により、経営に困難のある非常な閑散路線でありながら、国鉄再建法による赤字ローカル線廃止の対象除外となっていて、現代に至るまで路線廃止を免れているという。

最近の秘境ブームや熟年、女性の旅行ブームも手伝って、この只見線は、絶景の秘境路線としても知られている。 
その風情と車窓から眺める破間川・只見川の渓谷美、それにマッチした新緑や紅葉が美しいことで知られ、行楽シーズンは混雑することもあるという。

特にシーズン中、自然以外は全く何も無い「田子倉ダム駅」は人気だという。

2008年日本経済新聞によれば、只見線は「紅葉の美しい鉄道路線ベストテン」の第1位に選ばれており、過去には、2003年に「雪景色のきれいなローカル線ベストテン」の第3位に選ばれている。


次回最終、更に「六十里越え



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東北紀行(130)只見 「只見川」

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東北紀行(130)只見 「只見川」 .





電源開発を象徴する只見川(田子倉ダムより)




只見川は山深い会越国境を水源としていて、水の流れは豊富で満々として流れている。

思えば同郷(福島いわき)の小生が幼少中学生の頃、この只見川水系の電源開発について、グループではあるが研究発表したのを思い出した。

確かに、只見川は戦後、電源開発事業が大々的に行われ、一大電源地帯として脚光を浴びるという歴史を持ったいるのである。
今でも、只見町は電源開発の町と自称しているようである。

電源開発工事により、只見川水系(阿賀川、阿賀野川を含む)は、只見町内の田子倉ダム、只見ダム、滝ダム、黒谷ダムを含め20ものダムで閉め切られ、34の発電所が完成、その発電力は最大出力240万kWを越え日本屈指の大電源地帯となっているのである。


只見川は、標高1,665mの尾瀬沼を源とする急峻な河川で、町内では伊南川など多くの支川を合流し、阿賀川に合流する延長145kmの河川で、新潟県に入り阿賀野川となり、日本海に注いでいる。

源流域は積雪を含めて年間雨量も多く、尾瀬沼、燧ケ岳(2,356m)、駒ヶ岳(2,132m)、会津朝日岳(1,624m)、浅草岳(1,586m)などの山岳地帯であり、積雪5m以上の日本有数の豪雪地帯で、この雨、雪が只見川の水力発電に大きな原資となっている。

只見川の電源開発はすでに明治40年代には計画された経緯もあり、電源開発地域として古くから注目されていたらしい。  
昭和4年頃から水利権関係の交渉が始まり、現地調査を経て、昭和16年から只見川最初の宮下発電所(至近、会津宮下駅)の工事が始まった。


戦後政府は、戦後の経済復興にあたり、アメリカのTVA方式で電源開発をはかる特定地域開発計画をすすめ、昭和26年国土開発只見特定地域が指定されて、本格的な電源開発の幕開けとなった。

TVA方式とは、アメリカ合衆国中南部、テネシー川流域の総合開発のことで、1934~43年、ニューディール政策に基づいて流域に多くのダム・発電所・灌漑施設を造り、北部に偏在していた工業地帯を南部に拡大する要因となった。


次回、「六十里越え




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東北紀行(129)只見 「河井継之助」

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 東北紀行(129)只見 「河井継之助」  ,




越後長岡藩家老・河井継之助(かわい・つぐのすけ)は、江戸に上って佐久間象山らの教えを受け、蕃所調書(洋学の学問所で東京大学の前身)の頭取となり、西洋事情にも通じていた。 

ペリー来航後、藩主牧野忠雅に藩の進路を進言したが容れられず、一旦、長岡に帰るが、その後も藩事情を検分するため諸国を巡り、更に長崎を回って帰国する。 
藩主(牧野忠恭)に才を認められ、郡奉行・町奉行・年寄役と進み慶応4年(1868年)家老に任ぜられている。 


慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていき、朝敵の汚名をうけた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。

継之助は事を平和理に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監・岩村精一郎と慈眼寺において談判したが決裂している。
ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、さらに奥羽越の諸藩同盟を結成、その監督として善戦したが5月には長岡城落城、継之助は銃弾を受け負傷し戸板に乗せられて、部下千数百人とともに「八十里越え」から会津に逃れた。 
8月5日に只見に到着し傷の手当てを受けている。

12日に幕府の侍医・松本良順のすすめで若松に向けて出発し、塩沢に到着したが、継之助はすでに己の死を予感し、従者・松蔵に夕刻死期の準備を命じ、16日夕八時頃、静かな眠りに入った。
時に継之助42歳であった。


『 八十里 こしぬけ武士の 越す峠 』

この句は慶応4年、八十里越を戸板の担架に乗って越した長岡藩家老・河井継之助が詠じたものである。 
こしぬけ」は腰抜けであるが、越抜け、越後を抜ける意味もある。


司馬遼太郎氏の歴史小説・『』に、主人公・河井継之助が描かれている。
終焉の地・只見町塩沢には河井継之助記念館が建つ。


叶津番所跡は、南会津と越後を結ぶ唯一の街道八十里越の番所で、物資の流出を監視し、旅人を取り締まっていて、戊辰戦争での会津が降伏するまで代々長谷部家が守っていたという。

次回、「只見川




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