スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『山旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(7)

(近畿日本ツーリストの国内ツアー )


「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。


『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(7)


明けて5時15分には起床、祝いの雑煮とお屠蘇で心ばかりの祝杯を挙げる。
6時30分を過ぎた頃、真正面に望まれる横岳、赤岳がモルゲンロート(朝焼け)に輝いてきた。 それが次第に、徐々に広がってきて、向かいの秩父の山稜が輝くばかりに染め上がってきた時、初日の御来光が周囲を射差した。
それは真に1970年の幕開けに相応しい、輝きと希望に満ちたものであり、至福のひと時である。 遠方の富士が一際、威厳をもって聳え立っているのが印象的であった。


さて、感激にばかり浸ってはいられない、先の道程も長く険しい。 この先、「八つ」最大の難所と言われる横岳のナイフリッジ状の長い稜線が控えているし、おまけに横長の大型キスリングを背負って踏破しなければならないのである。

昨日這い上がってきた西の壁である地蔵尾根の分岐である地蔵ノ頭を先ず通過する。
ゆるやかな稜線を下った後、岩場の登りが始まる、良く踏み込まれたトレースがしっかりしているので、特に危険は感じられない。 ハシゴを登り、1つ目の小さなピークを東側から巻くように踏み越える。
向かう遠方の北アルプスである「槍・穂高」の峻峰が手に取るようで、その峰々の最北部に白馬の三連山も鮮明である。 槍・穂高はつい最近の昨年の夏、登破しているので思い出深いところでもある。又、今年はあの白馬三山を人気の「大雪渓」から挑戦しようと、既にインプットしているが・・。

上空はあくまでも澄み渡り、白黒のまだら模様の岩塊とは対象的に、濃紺という黒に近い大空が広がっているのである。それに、全く幸いなのがこの狭い稜線上で風を全く感じないのである。
思い起こすと、小生が未だ山の味を覚えたての頃、「丹沢」や「谷川岳」以外の3千m級の山を始めて挑戦したのがこの「八つ岳」であった。 あの時、赤岳南方の権現小屋で大阪の女性達と意気投合し、苦楽を共にしながらこの赤岳から横岳の稜線尾根を夢中で踏破したのを、つい先刻のように鮮明に覚えている。
「八ヶ岳・1966」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/yatu1966-1.htm 
それは3年前の夏のことであった。 
今は山の様相は全く違った白銀の世界であるが、山の姿そのものは変わることはない。

横岳の岩場は二十三夜峰、日の岳、鉾岳、石尊峰、三叉峰、奥の院(主峰)などと特異な名称が並ぶ。
二十三夜峰と呼ばれる直立した岩峰の辺りからが稜線の核心部でもあり、横岳への岩峰群の道となる。  
基本的に危険な岩場には、例に拠って各種の安全装置・・?が設置されているので安心ではあるが、赤岳の下りでも経験積みで恐いのは急斜面の下降であろう、谷底へ持っていかれないように充分な注意が必要である。
高度感にも多少慣れたとはいえ、ピッケル、アイゼンを確実に利かせて注意して歩かなければいけない。
「カニの横這い」という奇妙な名前も現れた。実は、この後の「立山・剣山」をやったときにも急峻な岩場に同様の名称があったのだが・・。
ハシゴ、クサリと岩場のアップダウンが連続する。 
日ノ出岳と鉾岳の鞍部あたりはセッピ(せっぴ・雪庇:山の稜線の風下側に庇ヒサシのように突出した雪の吹溜り。崩れ落ちて雪崩の原因となる)が大きく張り出している。雪崩れないか、滑落しないか、雪質を充分に確かめる、 幸いその兆候はないようだ・・。
大権現の石碑のあるピークを過ぎ、ケルンの積まれた三叉峰を巻いていく。 ここは杣添尾根への分岐にもなっていて、その山稜が大きく裾野へ延ばしている。 そのすぐ隣には「県界尾根」が同様に枝脈を延ばしている。
鉱泉小屋からの眺めでもお馴染みであったが・・、横岳の主峰・奥の院からの大同心の巨大な岩峰が、稜線より離れて斜めに突き出したように異彩を放っている。
振り返ると赤岳がピラミダルの如くどっしりと構えて実に素晴らしい!
横岳(奥ノ院)の前後の急登の岩場も、クサリでさほど緊張せずに通過する。

(専門店の品揃え、ビックカメラのECサイト)

akatakew
硫黄岳付近より見る「赤岳と阿弥陀岳」

横岳の岩場もここまで来るといよいよ終盤である。 台座ノ頭からは硫黄岳が雄大に見え、その向こうは「北八ヶ岳」のなだらかな山並みが身近に見え出した。
足下には硫黄岳の「大ダルミ」が広がり、振り返ると赤岳、阿弥陀岳、その間に権現岳が顔を覗かせていて、まるで山岳シネラマを見ているようである。
相変わらず上空は一点の雲もなく、白の世界と空の青さのコントラストが実にいい。 谷から引き上げてくる刺すような寒風はあるが、とくに気にするほどではない・・。

さて、いよいよ最後の下りにかかった。
硫黄岳手前の広い登山道にはケルンが一定間隔に作られており、吹雪や見通しの悪いときなどは有り難い目印になる。
それにしても冬山には可憐な高山植物などは見ることがないが、この辺りは本来は華麗なお花畑が一面に広がっている処でもある。 
途中に、『取るは一瞬、育つは風雪百年』の指標が半分雪に埋もれて立っていたのを思い出した。

間もなく硫黄岳山荘に到着しする、山荘は半ば雪に埋もれるように在った。殆ど休息を取らず、無我夢中で踏破してきた後の大休止であつた。
本日の行動予定は、この後「硫黄岳」をやって、赤岩の頭からは鉱泉小屋まで下り、そのまま家路に着く予定である。 時間は充分にあった。
長い休息の後、その硫黄岳へ向かった。
気持ちの良い稜線歩きであるが、あまりのダダッ広いため吹雪や霧に巻かれると危険な箇所でもある。今は全くそのような心配はないが・・。
あっと言う間に山頂に着いた。 
なだらかな広い山頂には大きなケルンがあり、標識には「硫黄岳標高 2760m」とあった。
峻険な赤岳や破天荒な横岳が男性的とすれば、硫黄岳の山頂の優しさはさしずめ女性的とでも云えようか・・?。
しかし、この女性的な硫黄岳には隠された激しい面が有ったのだ・・!!

(イオンのオンラインショッピングサイト)


yokotakew
硫黄岳より横岳稜線、正面三角岩は「大同心」

(J-Yadoで全国の旅館やホテル、公共の宿の予約)



kitayatuw
硫黄岳より北部、「北八ヶ岳」方面と蓼科山

ご存知・・?、側面に巨大な爆裂火口をもつ広大な硫黄岳は、南八ヶ岳の中でもひときわ個性的な山でもある。
因みに、八ヶ岳連峰は、大昔(おそらく数万年以上前)は一つの巨大な火山であったらしい。 
「八ヶ岳」を西側の、又は東側の遠くから眺めると、裾野はきれいな円錐形をしているが、上部は吹き飛んで抉られたように不規則な形をしているのが判る。
すそ野の大きさから推測すると、富士山よりもかなり大きくて高い火山で、それが或る時、強烈な爆発性の噴火によって山全体が吹き飛んで、現在のような多くの山頂を持つ連峰としての形になったといわれる。 現在は、その名の通り「八ヶ岳」という名称になっている。
硫黄岳の山頂側面には、その時の名残である爆裂火口の一部を見ることができるのである。

「山の想いは尽きない・・」であるが時は待ってくれない、この感激を胸に収めて、いそいそと山頂を後にする。
「八ッ」の主峰や峰々に見送られながら一路、赤岩の頭から赤岳鉱泉を目指し、下山の帰路についた。


「終り」 

(ケイタイ、P・Cでお留守番中のペットを見守る「るす番モニター」)





スポンサーサイト

テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

『山旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(6)


阿弥陀岳
赤岳山頂から「阿弥陀岳」、手前は中岳

「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

(近畿日本ツーリストの国内ツアー )



『山旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(6)

稜線に出て、先ずは赤岳石室小屋(現在の赤岳天望荘)で休憩とする。 そして、今夜はこの天下の稜線小屋で一夜を明かす予定でもある。
 
小屋の中は、今は薄暗くひっそりとしていて何の変哲も無いが、我等にとっては御殿のお城のようなものである。
時刻は未だ午前の域であり、昼食代わりに軽いビスケットと紅茶等を胃に詰め込んで早速、主峰・赤岳のアタックにかかる。
無論、大型キスリングは小屋に留めて、小ザックのみの身軽な出で立ちである。 
先刻の地蔵尾根の登攀では、やや緩めだったアイゼンの紐もしっかり結び込んだのは勿論である。
先ず、ツヅラ折りの急斜面を登ってゆくと、一枚岩のような平板の登りにさしかかる。
胸突き八丁の登りをアイゼンを効かせ喘ぎながら登る。 
堅い雪の斜面はアイゼンがよくきき登りやすいが、それでも先端部を充分に利かし、鎖に頼りすぎないようにピッケルでバランスをとりながら凡そ、垂直とも思えるような急斜面を攀じる。
幸いにして、この頃は風も止み、視界は透明感で溢れ、富士山もくっきり見えている。

鎖場の上部核心部も多少ビビリながらも無事に越えて、あとはジックリ進むこと20分余り、山頂の小屋がすぐ近くに見えだした。
山頂は小屋から南へ一分ほど歩いたところにあった。
石室小屋から1時間足らずで遂に、冬季における八ヶ岳主峰・赤岳の2899mの山頂立ったのである。 思わずバンザイと大きな声で叫びたくなる気分である。 遂に冬山で3000m級の山頂に立つことができたのだ。
厳冬期の山頂でこんなにゆったりできるのも、天気がよく無風な為であろう。
いずれにしてもコンディションもマヅマヅで、いい日和に恵まれたらこそで、天気が悪かったら初心者の我等の実力ではとても頂上は目指せなかったであろう。 
神に感謝である・・。

(お馴染み、ファッションのパルコの通販)



2800m代の標高は、富士山と北・中央・南の各アルプスとここ南八ヶ岳以外にはなく、わが国では貴重な高さなのである。
無論、頂上の展望は素晴らしいの一語で、遠く北アルプスの稜線から中央アルプスの稜線まで望め、たなびく雲の間から富士山が頭を出している。 そして何より素晴らしいのは、間近に見える南アルプスの稜線である・・、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、白峰三山に鳳凰三山と、南アルプス北部の山々を手に取るように眺めることが出来る。

赤岳(2899m)
赤岳は八ケ岳連峰の最高峰で、長野県茅野市と山梨北巨摩郡大泉村との境に位置している。 
その山容は南麓方面から仰ぐと、ヨーロッパ・アルプスのアイガーに似ているともいわれ、勇壮そのもなのである。
因みに、「赤岳」という山名は、酸化鉄による赤い岩肌からきたもので、早朝や夕映えの輝きはひときわ美しいものがあるという。

所謂、「有頂天」の一時を過ごした後、山頂を後にする。
さて、同じコースでの下りになる・・、登りではさほど怖いとは思わなかったが、急斜面やトラバース(横歩き)では緊張を強いられる、滑落すれば一巻の終わりである。
クサリ場あたりの断崖では慎重にピッケルを使い、アイゼンのツアッケ(尖トガった先の部分)をしっかり利かせて一歩一歩距離をかせぐ。 
はじめのジグザグのところまで下りきればもう安心である。

(イオンのオンラインショッピングサイト)



思い起こすと、今日は12月31日の大晦日である、この年も残すところ僅か数時間となった。
缶詰を開き、ウイスキーをチビリながら、彼と山の談義をし今年一年を振り返るのである。
小生自身の今年の10大ニュースは何だろう・・?、特にこの度(旅)の「八つ・越年登山」はどの位置にランクされるのか・・想いは巡る。
小屋の管理人も今日だけは許すであろう・・、周囲のグループ、大パーティなどは年越しの宴で大賑わいである。

トランジスターラジオ(現、携帯ラジオ)が、恒例のNHK紅白歌合戦を雑音とともに奏でている。 そう、下界では、其々が新年を迎える準備も整い、大晦日を楽しみながら「おこた」で寛いでいることだろう。 
小生達は、この山の頂で時を待つのであるが、果たしてこれで良かったのであろうか・・?、とフッと小心な気持ちを抱かないでもない・・。

・・・
床に入って・・・、気が付いて時計にヒカリを当てると、0時30分・・、既に新年は明けていた。
横の彼氏は鼻息をたてている、無言で「おめでとう」の挨拶を交わし小用で小屋を出て見ると、先刻までの風も止んで半月の光が周囲の山々を浮かび上がらせている。 
お月さんのご来光でもあり、非常に神々しいばかりの雰囲気であった。
明け方の好天を祈りながら、再び眠りに入った。


更に、続きます・・。


テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(5)

地蔵尾根分岐付近より
写真は地蔵尾根分岐付近より堂々たる「主峰・赤岳」と石室小屋(展望荘)

「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(5)

一服した後、早速アタックに懸かる。
行者小屋の裏手の石段を登ると分岐の標識がある。
ダケカンバの林をぬって、グングン高度を上げてゆく。 この辺りへ来るとさすがに雪の量も多くなり気を揉むが、しかし、ここ4~5日好天にの恵まれているようで新雪などは降りてない、従って、前登山者がしっかりラッセルを済ませてあるので真に歩きやすいのは幸いである。
アイゼンをしっかり効かせ、白の大地を一歩一歩踏みしめて登る。 冬山、雪山に来ているんだなという感触実感が、全身で感じ取れる。 苦しいながらも無上の思いを込めて更に一歩一歩前進する。気が付くと樹林の背丈がドンドン小さくなってきているのが判る、森林限界に近づいているのである。

そこを抜けきると、屏風のように覆いかぶさる岩壁が行く手を塞ぐ様である。
雪に埋もれたような森の中の急登を出来るだけ息を切らさないペースで登ること3~40分、いよいよ岩場の急斜面に取り付く。 岩場といっても実際は岩の部分は所々尖鋭部分が見えているだけで、殆どは雪と氷の世界である。
それでも登攀ルート、足場は意外としっかり付いているのが判る、でも油断は禁物である。 アイゼンをしっかり食い込ませ、ピッケルでバランスをとりながら三点確保で気をつけて攀じる。 急斜面の危険な箇所は、ハシゴやクサリが固定されていて安心感もある。
後方、振り返ると先刻通った行者小屋は遥かに小さく望まれ、周辺のテント場は色彩を散りばめたように、白の世界に浮き上がって見えている。正月登山ということもあり、多くの色とりどりのテントが華やかなのである。 
それにしても多くのパーティは何処へ行ってしまったのだろう・・?、このルートに取り付いているのは我々のみの様で、幸いというか今のところ前後にパーティはいないようで・・、従って、下から煽られることも無く、上のパーティにイラツクこともなく自分のペースで攀れるのは幸いである。
一息つきながら、更に周辺景色を眺めてみると、遠くに御岳に乗鞍、ずらりと連なる北アルプスの山々が真っ白に化粧して鮮やかに紺碧の空に浮き上がっている。さすがに高度感溢れる眺めである。
余りの景観に気を取られて油断すると脚を取られることにも成りかねない、ここは氷壁のスペースの小さい一角なのである。 アイゼンをしっかり利かしながらであるが、そのアイゼンの紐がやや緩みかげんなのは些か心配である。このあたりも初心者の不具合い、不備が出ているようで反省点であろう・・。 しかし、この急峻な場所で、紐を整える程の余裕など全く無いのである。

この先、更に数箇所のクサリ場などをやりすごす。
ここまで来たら、もう地蔵尾根の核心部は越え、これ以上難しい岩場も無い模様なので一安心である。でも油断禁物、事故はたいてい危険ではないところで起こるものである。
上辺の視界が徐々に広くなってきて、稜線が近づいてきているのが判る。登山者の姿もチラホラ歩いているのが見えた。 
最後の鎖場を攀じ登って稜線に飛び出した。 稜線は細いナイフリッジ状になっていて、勢い余ると反対側である東の谷底へ吸い込まれそうになる・・、ご用心である。
地蔵尾根分岐の指導標が雪に埋もれて遠慮がちに立っていて、ほっと一息入れる瞬間でもある。

ここからの稜線の道は過去に歩いた道でもある、とは言っても無雪期の頃であるが・・。
やはりと言うか、さすがに厳冬期の「八ヶ岳」はそんなに甘くはなかった。まじい風である。 稜線に出た途端に強烈な風が襲ってきたのである。
小生の蔵書の一つ、新田次郎の小説「孤高の人」の加藤文太郎は、最初の冬山でこの八ヶ岳に入山している。そして、この赤岳への稜線で強風に会い、吹き倒されるというシーンがあった。

序ながら、登山家・「加藤文太郎」という人物について・・、
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう)は、大正期から昭和初期にかけての孤高の登山家といわれた。
当時の登山は複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされた。その常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残し、その登山に対する精神と劇的な生涯から新田次郎が、そのドラマのモデルとなっている『孤高の人』を著した。
当時の彼の住まいは神戸の須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。そこで、六甲全山縦走を始めたのが加藤文太郎の登山の始まりであった。 但し、非常に歩くスピードが速かった彼は、一日に2度往復し、その距離は約100kmに及んだという。
当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、また猟師などの山岳ガイドを雇って行く、所謂、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、また高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。
単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなっていた。
単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となった。
1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳・北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じた。
当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じている。


次回に続きます・・、


テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(4)



「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(4)

赤岳鉱泉の現況について述べておこう・・。
バス停の美濃戸口から2時間30分ぐらい歩いて辿りつくのが赤岳鉱泉であり、南八ヶ岳の登山基地として標高2,300mに位置する宿である。
山の宿・「赤岳鉱泉」は、硫黄岳や横岳の荒々しい岩峰を眼前にする山の基地であり、通常のシーズンは家族づれ、高年齢の方でも最適な山小屋であるのは勿論、冬山のベースキャンプ地として賑わいを見せるところである。
昔は近くの河原でも硫黄臭がした・・?ように、鉱泉の沸かし湯であったらしいが、現在はそうではないらしい。 それでも、山の宿で風呂に入れるのは有り難い。
収容250名、テント200張、一泊二食で9,000円 素泊まり 6,000円・・通年営業。
山に入る前に予約しておくと安心であろう、南八ヶ岳で唯一通年営業しています。
電話090-4824-9986 


昭和44年12月31日・・、大晦日の日が快晴で明けた。
それにしても寒い・・!!、夜中も余りの寒さで目が覚め、あわてて持参してきたものを全て着込んだものであった。 宿の主人に聞いたら、「放射冷却もあってマイナス17、8度くらいまでは下がったんじゃないかな・・、普段はセイゼイ10度止まりなんだが・・」と・・。
午前6時少々過ぎであったが、悴む(かじかむ)手で慌てて、先ずは暖かいコーヒーを沸かしパン類を千切って口に放り込む・・、快晴なので一刻も早く出立したいのである。
それにしても昨日にまして眺めが素晴らしい、特に荒々しい横岳の姿がいい。たっぷりと雪のついた大同心も小同心も、横岳本峰も、とにかく荒々しく美しく、惚れ惚れする眺めである。

準備を急ぐ・・、
オーバーヤッケにスパッツ、アイゼン、ピッケルと一応の服装を整えて出発したのがそれでも7時半頃であった。
先ずは、「八つ」の主峰・赤岳を目指す。行者小屋から赤岳、横岳の稜線の道は、この鉱泉の裏手から続いていた。
鉱泉から行者小屋間は、丁度中間にある「中山乗越」という小さな峠を越えるようになる。先ずは殆ど平坦な道であるが、次第に緩やかな登りとなる。
昨夜は、夜中に寒さで起きはしたが、アルコール分のちからを借りて就寝時間は、たっぷり8時間はとれたろう・・、お蔭で体調はいたって快調のようである。それでもペースを乱さないよう気をつけながらジックリと歩と進める。 
さすがに今頃の時期は小鳥の声も聞こえず、ただ、雪を掻き分けるサクッ、サクッとした足音のみの「寂」の世界であった。
登りで凡そ40分もかかったであろうか、中山乗越の峠に辿りついたようである。 
赤岳鉱泉から見る横岳大同心は巨大な岩坊主のような姿だったが、ここから見る大同心は岩壁を垂直にそそり立たせた鋭い姿に変る。角度によって山の姿がだんだん変ってくるのも面白い。眼前に赤岳の圧倒的な迫力が迫り、阿弥陀岳も見えてくる。
快晴無風の抜けるような晴天は、いやがおうにも意欲を駆り立てる。

大同心-
「大同心」

行者小屋-
行者小屋、背後は横岳

下りは、30分もかからんで行者小屋についた。
ここでしばし体を休ませ、水分、食料を補給する。 水分は、今朝沸かした薄いコーヒーをポリタンに詰めてきたもんでであるが、因みに、水は凍る恐れもあるので持参してない、喉が渇けば雪をしゃぶれば良いと思っている・・、自炊の水も雪である。(小屋に水が無い場合)。 食料と言ってもチョコを少々齧っただけであるが・・。
それにしても行者小屋周辺は鉱泉小屋に比べて原っぱが大きく広くがっているせいで小屋前からの景色が良い。 特に、端正な姿であった「赤岳」が、すっかり高く、荒々しくなっているのが印象的である。
こちらも鉱泉小屋同様、色とりどりのテントが賑やかである。 やはり、年末年始の永い休日を利用しての愛好者が大勢入山しているようである。

さて、行者小屋から主峰である「赤岳」へのルートは、正面の地蔵尾根コースと右側の文三郎道に分かれる。
一般コース的には地蔵尾根コース、健脚向きには文三郎道といわれるが、いずれも山頂直下に出るコースで所要時間もほぼ同様のようである。
文三郎道は赤岳の山頂直下に出るコースと、途中から中岳のコルへ出るコース(中岳道)とがあるようで、右に聳える「阿弥陀岳」をねらうには中岳道が良さそうである。
我等は、冬山でもあるし時間的にも「地蔵尾根コース」を取ることにしている。

次回に続きます・・、


テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(3)

「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

『旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(3)

この「山ノ神」からは北沢の河原伝いを歩くことになる。

北沢と横岳
北沢と横岳

「奥山の 谷間の梅の 木がくれに 水泡とばして ゆく水の音」

と島木赤彦(明治、大正期の地元・諏訪出身の歌人)が詠んでいるが、元よりこの辺りは瀬音激しく流れ落ちる渓流である。 今は「白氷」の時期であり、雪と氷に閉ざされた無垢の世界である。
普通なら、この辺りは既にアイゼンやピッケルが必要な世界であろうが、往来が結構あるのだろう・・、山道は鮮明にして踏み跡もしっかりしている。

周囲を見渡すと、さすがに山懐に入ってきたという感じで、谷筋も深く険しい様相を呈してきている。 ただ正面展望も利くようになり、右手に「美濃戸中山」の優雅な山容、その遥か奥まった所に陰惨な横岳の岩稜から硫黄岳の稜線が望まれるようになった。

河原に渡してある丸太を組合わせて設えた「丸太橋」を、危なっかしい足取りで数回渡る。
遥か上方には抉(えぐ)り取られた様な平坦な台地状のエリアが見渡せる、あの辺りが取り敢えずの目的地・赤岳鉱泉に違いないと、勝手に想像を膨らまして更に前進する。
「鉱泉までどれぐらいですかね?」下りてきた登山者に質問してみると頼りなげに「う~ん30分ぐらいかなあ」という返答が返ってくる。「あの辺りが鉱泉ですか・・?」と指差して更に聞いてみると「ああ、そうかもしれませんね・・?」とこれまた頼りない。 下ってきた人には、上りの時間はよく判らないものかもしれない・・。それとも、」冬山登山者はあまり挨拶を交わさないのであろうか・・?。単独者であり、個人的な自分の山歩きを大事にしているのかもしれない。

だんだんと、確実に、積雪も深さを増しているようであり、既に、この辺りで歩道の両横は膝から膝上まで達しているようである。 
「そろそろアイゼン付けようか・・?」、相棒にそれとなく聞いてみると、「否、何とか行けるだろう・・、小屋も近そうだし・・」と返してきた。 そうなのである、ニッカズボンに時おり、脇の雪が触れるくらいで、特にスリップなどの心配はなさそうである。 
思えば、急斜面でも上りは比較的安定して登れるものである。 新調した12本歯のアイゼンは未だ新調のままである・・。
それにしても、「高山の冬山」という未知のエリアに向かっている実感が、靴底から伝わってくるのである。 高度を増すごとに、雪の量も次第に深さを増してきている、ただ、有り難い事に、上空は一点の雲も無く、晴れ渡っていることは何よりである・・!。

黙々と歩を進めるうち、大小の色とりどりのテントの林が飛び込んできた。その奥まったところに堂々とした山小屋があった、待望の「赤岳鉱泉」である。
見上げると正面にギザギザした「横岳」稜線に異彩を放っているのが「大同心」とかいう岩峰で、鋭く天を指していた。雪を被って、更に陰影が鮮やかなためか圧倒されるほどの凄い迫力である。 明日は、あの尾根へ取り付く予定であるが、果たして・・。

時に正午を半分ほど回っていた。 本日はこちらで厄介になるのである・・。
早速、陣を取った・・、215号室、二階の15番目の個室の部屋であった。 思えば、槍(北アルプス・槍ヶ岳)の肩の小屋に似ているようにも思ったが・・、かなりデラックスな感じである。 棟は4棟あって、廊下ごしに各部屋がある。 自炊はこの廊下で行なうらしい、部屋からドア一枚隔てただけで真に便利である。
昼時なのでコーヒーを沸かし、ウイスキーを流し込みながら持参した菓子パンを齧(かじ)った。 後は、昨夜の寝不足もあり、アルコールも身体に回ってきて自然に眠りについてしまった。

鉱泉より横岳
鉱泉より横岳

気がついて・・、目覚まし代わりに小屋周辺を散策してみた。
小屋の出入り口に数人佇んでいたが人気はそれだけで、周辺は静寂な白の世界が広がっている。 吹き溜まりには1m程度の積雪があっただろうか・・?、雪の状況など小屋の人に伺うと、それでも今年は例年並みらしい・・。
小屋へ戻ると次には夕餉の支度である。 明日のアタックに先駆けて、持参した焼肉でスタミナをつける。併せて、ビールと熱燗の合わせ酒にボンカレー、二人きりの小さな個室であるが、余計な会話は不必要なくらい山の雰囲気をも充分に味わい、すっかり身も心も満足であった。
後は、明日の幸運を祈りながら夜の眠りに就いた。

次回に続きます・・、

テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

『山旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(2)

「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。



『山旅の記憶』・・「八ヶ岳:越年登山」(2)

山の積雪は、今年は例年並と聞いていたが、麓の様子はどうであろうか・・、登山口周辺では薄っすらと積もっている程度である。 だが、山間に入るに従って、雪の量も次第に多くのが判る。 
暫くは、林道を進むようになる。 自動車のタイヤの跡を辿りながら、ダラダラの斜面を登っているようだ。 足下の雪が、キュッキュッとなって、いかのも雪山、冬山に来ているんだなーと、実感が足下から伝わってくる。 快適な徒歩である・・。

背中は大型の「キスリング」(※)である。
家を出るときは、ザックの重さと大きさに、さすがに少々の不安というか、前途多難を感じないわけではなかったが、今こうして一歩一歩前進していると不思議に思えるくらい快調なのである。
ただ、相棒の鈴木氏は、昨夜の新宿での深酒が残っているのか、やや身体が重そうなのが気がかりである・・。しかし、タフで、我慢強さには定評のある彼のことである、やがて調子を取り戻すだろう・・。

(※)因みに、装備用のザックといえば、現在は西洋型というか・・、縦長の軽量合成繊繊のものが主流のようであるが、当時は綿作りの黄色いゴワゴワした、両サイドに大きなポケットを備えた幅広の物であった。
これは「キスリング」といってキャンバス製の大型ザックで、発案者であるスイスの登山用具製造業者「キスリング」氏の名前に由来しているという。
厚い木綿のキャンバス地はそれ自体に防水性があるが、さらに防水性を高めるために熱したワックスを溶かして塗布することも時には行われたという。 
駅の改札を通るときなど横幅が広すぎて引っかかるので、体を横にしながら改札を通り抜けていたことから、かつてはキスリングを背負って山に出かける我等若者たちは「カニ族」とも呼ばれた。
今ではめったに使っている人を見ることがない。

山荘


フット面を上げると、正面に天を指すピラミッドの様な「阿弥陀岳」の雄姿が覗かせている。その上は、透き通るような空の青である。
カラマツ林の白い幹が、今の時期のせいもあろうか一段と輝いているようだ・・。
1時間程度の徒歩で「美濃戸」へ着いた。 
第二の基地・・?であろうか、山小屋が数軒道を挟んで在り、登山者を歓待していて嬉しい限りだ・・。 朝食代わりに暖かい「ウドン」を啜りながら、一休みである。

分岐
林道南沢、北沢の分岐点辺り(写真提供者に感謝)

美濃戸からは、いよいよ本格的な登山道になる。
登山道は北沢(硫黄岳)、南沢(赤岳方面)の分岐となり、沢筋を主体に二つに分かれる。
北沢ルートは、左方向で「赤岳鉱泉」を経由して硫黄岳へのルートであり、南沢ルート(右の細い登山道)は、「行者小屋」を経由して赤岳、阿弥陀岳へ向かうルートである。
我等の目的は、主脈である赤岳から硫黄岳のルートの所謂、反時計回りである。従って、本来は南沢ルートであるが・・、北沢ルートの方が良く整備されて歩き易いとの情報を得ていたので、左方向の赤岳鉱泉に決めていたが・・。

先ずは、今回のために購入した新しいスパッツ(アイゼンは未だ不要と思われる)を丁寧に装着しながら、一服した後、その赤岳鉱泉を目指した。
美濃戸からもチョットの間、同様の林道を進む。 左右は白樺林であるが、文字通り白の雪を被ってヒッソリとしている。
この辺りからは、さすがに勾配も増してきている。一歩一歩、息を整えながら歩調を取る。
間もなくすると、堰堤の工事箇所があり、広く開けた平坦地は「山ノ神」とかいうらしい・・。
山郷の祭りには、この地に八ヶ岳の山ノ神が降臨するのだろうか・・、思うと、この開けた地が、不思議と神聖な地にも思えてもくるのである・・。

「山ノ神」を’辞書を引くと、「山を支配するものとして農民・猟師たちに信じられている神」、又、「恐妻の意の 婉曲表現」とある。 「山神」、「山神様」とも表記され、その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なるという。 
尤もなことで、小生の田舎(福島県いわき市常磐)では、当時まだ常磐炭鉱が盛んな頃、「山神様祭り」、「山神祭り」といって炭鉱を護ってくれる「山の神」の御祭りがあった。 この神は、鉱山で採掘された鉱石・石炭がご神体であるらしい・・。
どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを恐妻であるとして謙遜する「山の神」という表現が生まれたようである。
このような山ノ神の大元を辿ると、『古事記』や『日本書紀』の「イザナミノミコト」(女神)に一致するという。

そういえば、記紀の(古事記、日本書紀)神産みにおいて「イザナギ」と「イザナミ」との間に生まれた「大山祇神」(男神:オオヤマズミ)などが山の神として登場する。元より、各地の山を統括する神で三島大社、三島神社の祭神でもある。
そして、オオヤマツミの娘に「コノハナノサクヤ」(女神)というヒメがおり、この姫は富士山を鎮護し代表する「浅間神社」の祭神でもある。
父のオオヤマツミは、娘のいる日本一の秀峰富士山を譲り、娘は、この山に鎮座して東日本一帯を守護することになったという。

次回に続きます・・、


テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

『山旅の記憶』・「八ヶ岳:越年登山」

赤岳と阿弥陀岳
主峰・赤岳(左)と阿弥陀岳

 
「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

『山旅の記憶』・「八ヶ岳:越年登山」

年月日;昭和44年(1969年)12月29日~昭和45年1月2日
同行者;鈴木信夫氏
宿 泊;赤岳鉱泉、赤岳石室小屋(現在名称は「赤岳天望荘」)

『八ヶ岳:越年登山』(1)


殆ど快晴に恵まれた今度の年末年始で、山屋の各所の正月登山も好天に恵まれたようだ。
だが、正月明け1月4日付の新聞やニュースは相変わらず、冬山登山の遭難記事が載っていて、4人死亡、7人が滑落などで怪我を負った・・と、そして、新聞の寸評は「装備は最新だが、心の装備が足らない」ともあった。
我々にも思い当たる節はなかったか・・?、冬山装備は一応整えたものの、何せ未経験のため多少の不安があったのは事実である。
初めての冬山経験を終えて、新聞の遭難記事を見るにつけ改めて感慨を深くしたのであった。


山の経験が未だ浅い我々が、冬山を決行しようとしたのは11月の半ばであった。
何しろ何もかもが全くの未知で、装備、技術上の問題、心構えなど不安だらけであったが、どうしても何処かの雪山へ泊りがけで行きたい気持ちは相棒共に一致していた。
そんな訳で一応、「八ヶ岳」に目標をおき、それ相当の準備を進めることにした。

ウインドオーバー、防寒スパッツ、目出し帽、肝心なアイゼン、輪かんじき(橇・雪の中に足を踏み込まぬため靴の下に付けるもの)、ピッケル等々、夏山には必要ないと思われる物が、冬山には絶対的なのである。 又、冬山に関する書物を読んで出来るだけの知識を得、「八ヶ岳」に関する多くの文献に目を通して、冬山の状況や最も効率の良いルートなどを選択しなければならない。
そんなこんなで、取あえずの準備が整い、あとは出発するのみにまで至った。 尚、登行予定についての詳細は、会社及び家のほうには知らせておいた。


12月29日・19時40分頃、25kg前後のキスリングを背負って我が家を出た。
相棒の鈴木氏と新宿駅で落ち合い、西口駅裏のお馴染みの薄汚れた食堂街で軽く一杯と夕食を摂った。
因みに、駅裏の食堂街というのは、新宿西口駅裏のバラックのような小さなカウンターバー形式の飲食街・・?で、破れた赤提灯が並ぶ「のんべ横丁」である。 別名を、「ゴキブリ横丁」だの「ションベン横丁」だのと、いろいろ異名のあるところであるが・・、「思い出横丁」というのが、取り敢えずの本名らしい。 とにかく財布の軽い呑み助の溜まり場である。
新宿というと歌舞伎町、四・二丁目、ゴールデン街と遊び所は多々あるが、ポケットが軽い身分の小生などは新宿へ遊びに行って用を済ました後は、概ね、こちらの西口駅裏あたりで一杯やるのが気兼ねが無くて気分が楽なのである。
「ちあきなおみ」の唄に・・、♪♪・・・新宿駅裏 「紅とんぼ」想いだしてね 時々は・・♪♪、・・というのがあったが、まるでその歌そのままのような世界が、新宿西口の駅裏にはありましたね・・、 今はどうなっているのだろうか・・?。

おっと・・!、飲み屋の話じゃありませんね、山の話でしたっけ・・。
0時20分の岡谷行き臨時列車は、定刻、新宿を後にした。 我等は、八ヶ岳の基点である「茅野」をめざしたが、臨時列車であり、しかもターミナルが岡谷ということもあって車内が大分空いていたのには助かった。 乗客の殆どは正月を山で迎える登山者で、どうやらこの臨時列車もそのための手配らしい・・。
天気予報も、暮れから正月にかけては比較的安定しているようで、何よりも安心して列車の振動に任せて眠りに着いた。

午前5時30分、未だ明け切らぬ暗い茅野駅へ着いた。
殆どの登山者――とは言っても乗客の大部分が登山者であるが――は、ここで降りるようである。 
季節柄で、当然と言えば当然なのだが、高原都市でもあり、さすがに冷気が身に滲みる。
バスターミナルは駅舎より右手にあった。 情報だと・・、八ヶ岳方面への路線バスは、通常の冬季間だと「八ヶ岳農場」までしか運航してない予定であったが、幸運なことに年末年始は特別便として「美濃戸口」まで入っているらしい。 お蔭で、1時間少々の節約が出来た・・。

ほぼ定員の登山客を乗せたバスは定刻の6時20分、一路、八ヶ岳の登山口へ我々を運んだ。予定よりやや早い7時少々には到着した。
ピーんと張りつめたような山の空気を胸一杯吸い込む、清清しい気分が身体に漲る。 体調は充分のようだ・・!。 気がつくと「八ヶ岳山荘」の瀟洒な建物が印象的である。
フンドシ・・否、靴紐を充分に締め直して、イザ・・!出発である。

次回に続きます・・、

テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

「大谷崩れ」について



「大谷崩れ」について

梅ヶ島地区に、日本の三大崩壊地域があると聞いて訊ねてみた・・、「大谷崩れ」という。
梅ヶ島温泉より4km程下った「金山温泉」のほぼ向かい側、梅ヶ島集落(新田地区)の安倍川支流である「大谷川」に沿って遡って行く。 
次第に、一面ガレキと化した源流沿いの勾配のきつい林道を走ると、いよいよ正面には「大谷崩れ」が近づいてくる。 道路のほぼ行き止まり付近に「大谷嶺」の大崩壊地域が正面に見参できた。

靄(もや)で霞んではいるが、遥か上方まで見通すことができ、その「崩れ」の様相の無気味さと険悪さに圧倒される。
付近の河原は岩石、砂利で埋め尽くされていて、簡単に徒歩で進入することが出来るが、実は当時は深い谷が落ち込んでいたらしい。 現在は、この崩壊で谷の深さ凡そ100mが全て山崩れの瓦礫で埋め尽くされたらしい・・。

「大谷崩れ」は日本三大崩れの一つだそうで、富山県立山の「常願寺川・鳶山崩れ」、長野県小谷村の「稗田山崩れ」を指すらしい。他に「富士大沢崩れ」などがあるとか・・。
大谷崩れは、安倍川水源の一つである大谷(おおや)領(標高1999.7m)が、宝永4年の大地震により大崩壊したもので、大谷領は山梨県側では行田山と呼ばれる。
標高が1999.7mということで、山梨県側では30cmの記念碑を建て、丁度2,000mの山ということでミレニアム開発をしたそうである。
標高2,000mの山頂から、その名も「扇の要」と言う場所に雪崩落ち、そこから裾を広げながら安倍川に雪崩ている。 
原因は地震と洪水とのことであり、扇の要付近の標高は1,300mであるので、実に700mの崩落という大規模なものであった。

写063(クリック大)  崩れ1埋め尽くされた大谷河原より、今は緑に覆われてきたが正面は大谷嶺の大崩壊地域である。

写「大谷崩れ」 大谷崩れ上空より大谷崩れの全容、ピークは大谷嶺(標高1999.7m、写真は、現地砂防管理事務所提供による・・。)

『フ ォッサマグナについて』・・或る地質学者の見解
日本の本州は右と左に分かれて、左が東西、右が南北にできているL 字形になっている。その中央部を境に別々のプレートに乗っているのが日本本州であり、その両方が接したところが「フォッサマグナ(大地溝帯)」と言われている。
そのへそが諏訪辺りで、その北西側に北アルプスがあり南側に南アルプスがある。
この大地溝帯に沿って日本が動いているといわれ、この辺りの破砕がどんどんと進んでおり、そこが谷間になりやすく崩れやすいといわれる。
興味深いことは、地形は諏訪辺りを中心にして180 °対称形になっていて、日本海側には富山湾があり,能登半島があり,立山の鳶崩れがある。 太平洋側には駿河湾,安倍川があり,伊豆半島があり,大谷崩れがある。
この様に、「フォッサマグナ」に沿って三大崩れがあり、立山の鳶崩れ、安倍川上流の大谷崩れ、姫川の上の稗田山崩れを三大崩れという。
そしてこれらの写真や地図を見ると崩れ方が皆同じであり、上からどんどんと崩壊していっているのが判る。 
そして、周辺地質は元々崩れているのが堆積したものだから、地震が起こればいつでも崩れるのである。
立山の崩れは150 年前、ここの大谷崩れは300年前に始まったといわれる。 さて、次に崩れるのはどこだろうか・・?と疑問を生じながら、150 年周期で考えたら良いかもしれない。
崩れ面は全てがスプーン状になっている。 土木の世界でいう“滑り面”の考えと一致する面もあるし、そうでない面もあるが、とにかく形を見るとスプーン状になっている。 これは下から見るとわからないが、上空や山頂から見るとよく見えるのである。
「大谷崩れ」を上空から見ると写真の如しである。

尚、筆者小生は、長野県白馬村に別宅を構えていて、隣村である小谷村の「稗田山崩れ」現場には数度訪れている。
状況詳細は下記ブログ、H・Pに記載あり・・。

ぶろぐ: 日本周遊紀行

ほーむ: 日本一周記



写「稗田山崩れ」 稗田崩れ最奥部の金山橋より望む。 奥の山稜が全域崩れているが、撮影点は崩壊部のほぼ中心で、見えているのはホンの一部である。山稜裏側は「白馬コルチナスキー場になっていることが信じられない。

写011(クリック大)  崩れ011田園地帯の一角、「崩れ」の入口に当たる記念碑。 高齢になって現地を訪れた「幸田 文」氏と平成の大洪水で遭難した人々の記念碑。



終り。 次回は「山」に関するブログを投稿する予定です・・。


テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

初夏の「接阻峡」から「梅が島」を往く・・!!


 

 

初夏の「接阻峡」から「梅が島」を往く・・!!

今日は、ここ接阻峡温泉郷より「梅が島」、更に、難所で知られる「安倍峠」を越えて山梨の身延へ至る道程を選択してみた。
接阻峡温泉から井川線の終着「井川駅」までの道のりは、大井川峡谷へ落ち込む急斜面のかなり狭い道である。 地図を見ても鮮明には載ってない心細い道路であるが、でも舗装された道で慎重に運転すれば充分可能な道である。
県道(静岡)60号と接した所を右手に下っていくと、間もなく井川線の終点「井川駅」である。 駅周辺は人家などは一切無い山中の駅舎である、ただ、駅に隣接した小さな土産物屋と軽食堂があるのは幸いであろうか・・。 100m程下部に、井川ダムが峡谷深くそそり立つ、観光客は一見の価値はあろうか・・?。

写056 井川ダム井川ダムサイト(クリック大)

県道60号は、井川ダムの堰堤を渡り、山中深く入り込んでゆく、この道は一般に「南アルプス公園線」とも呼ばれているようだ。 途中、山の出湯・「口坂本」の分岐を越え、「富士見峠」の明るい山頂を越えると、間もなく「笠張峠」の分岐を左へ目指した。
笠張峠からは県道189号線になり、相変わらず急峻な山間の心細い道である。 この道は、口坂本を通る県道27号(井川湖御幸線)とともに、北部の井川地区と南部の市街地とをつなぐ重要な道路である。 しかし県道27号より整備が進められており、かつ、距離が短いため、ほとんどの車がこちらを利用しているらしい。 静鉄バス(しずてつジャストライン)の小型バスが、富士見峠まで運転している。

落合地区で県道27号と合流し、安倍川を渡って次に県道29号を川に沿って北上する。 
油島地区より凡そ30km、30分ほどで本日の目的の一つ山峡の「梅が島温泉」地区に到着した。 安倍川のほぼ源流地域であり、その川沿いに、ひっそりと佇む山峡の出湯であった。

こちらの温泉は、今流行の掘削して掘り当てた温泉ではなく、源泉は一箇所の、ほぼ完全なかけ流しで、静岡市によって梅ヶ島温泉観光組合(12軒の旅館や民宿と1軒の食堂の全13軒)に分湯されているとのこと。
泉質は、無色透明で「ph9」以上の(アルカリ性)の単純硫黄泉、効能は神経痛、リウマチ、神経炎、慢性皮膚病、慢性婦人などに効き 湯浴み心地がツルツルしてすべらかで、昔から「美女づくりの湯」として親しまれていりという.。
春秋の行楽シーズンは、静岡市内や近郊からの湯せん客が耐えないと・・。

(クリックすると大きく見えるよ)
写 案内梅が島周辺案内図(観光協会提供)

059 梅が島1高台の公園より・・、左の道路は安倍峠へ・・。

060 梅が島2安倍川源流部と旅館街

065 梅が島3峠への途中から梅ヶ島温泉地区を望む


梅ヶ島温泉の歴史(協会の立看板による)

『梅ヶ島温泉は、静岡市の北部、安倍川源流に近い安倍峠の麓に位置し、標高1000メートルの雄大 な山々に囲まれた静寂な自然環境の中にあります。
その歴史は古く、一説には約1700年前に遡るとも言われています。三人の狩人により発見された説、砂金取りにより発見された説、或いは、仙人が 三匹の蛇が遊んでいる泉を見つけて発見された説など、梅ヶ島温泉の発見にまつわる逸話が多数あります。  
戦国期には、信玄の隠し湯とも言われ、古くから美人づくりの湯と知られるこの温泉は、単純硫 黄温泉で、神経痛・関節痛・うちみ・痔・冷え性・疲労回復・皮膚病などに効能があり、ツルツルとした感触の良い温泉は清く澄み、時として黄金色に輝き、湯の花を浮かべ、長い間、湯治場として多くの人々に親しまれてきました。
昭和4年の大火、昭和41年の大水害等の苦難もありましたが、現在は旅館・民宿・土産物産など十数軒が軒を連ね、その歴史を今なお継承しています。
この地、「おゆのふるさと公園」は、昭和45年に開設した市営浴場が平成11年4月に梅ヶ島新田へ移転新築されたことに伴い、再整備したものです。梅ヶ島温泉の泉質を感じていただくお湯に触れる施設や湯之神社・岩風呂・湯滝等を回遊散策し、展望デッキからは梅ヶ島温泉街も一望でき、梅ヶ島の魅力を垣間見ることができます。』



次回は、梅ヶ島地区・「大谷崩れ」について

テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

初夏の「奥大井・接阻峡(せっそきょう)」を往く・・!!


初夏の「奥大井・接阻峡(せっそきょう)」を往く・・!!


(3) 接阻峡温泉:「森林露天風呂」

写054 接阻峡054駅舎真ん前に在る「森林露天風呂」という宿屋
(クリック大画面)



今夜の泊まり宿は「森林露天風呂」という、チョット変わった宿の名前であった。

県道よりやや奥まったところ、奥大井の「井川線」の主要駅である「接阻峡温泉駅」がある。半ば無人の鄙びた駅舎であるが、その駅の真ん前のチョット高目に「森林露天風呂」という宿があった。 宿の女将は、どうも、この駅の仮駅員をも兼ねているらしい・・。
これまた、駅の真ん前の宿専用駐車場に車を止めると、早速、二匹のコリーが出迎えてくれる。
ロッジ風建物の「森林露天風呂」は、客室がたったの三部屋という小じんまりとしたもので、おまけに当日(5月23日・平日)の客は我等のみで、貸切のようなものであった。
そして名前の通り、この界隈ただ1軒の「露天風呂付きの宿」が売りでもあった。

温泉は、男は若返りの湯、女は美人造りの湯とも呼ばれ、アルカリ性のツルツルとした湯が肌にマトワリついて実に爽快で気持ちいいのである。
お蔭で、お上さん(妻です・・、)と混浴しながら「到着の湯」、「食前の湯」、「就寝前の湯」、「寝起きの湯」と四回も浴びる羽目になったが・・、イヤハヤ実に爽快爽快・・!!。

女性の露天風呂からは大井川鉄道の駅舎やミニ列車が見え、遥かに温泉郷の山郷が見渡せるのである。
尚、接阻峡温泉・「森林露天風呂」の設備で日帰り入浴ができ、700円というのはチョット高め・・?だが、湯上がりに冷たいお茶を戴だけるのと駅前の立地のよさとで許せると思うが・・?、皆さん是非お出かけください・・。 チョット宿のC・Mでした・・。

(サムネイル写真は、クリックすると大きく見えるよ・・!。)
写046 接阻峡046接阻峡大橋より眺めた、高台を走る大井川鉄道・井川線の駅舎と宿屋(左上方)

写055 接阻峡055井川線の主要駅「接阻峡温泉」の駅舎

写054 接阻峡054駅舎真ん前に在る「森林露天風呂」という宿屋

写050 接阻峡050女性用内湯

写051 接阻峡051女性用露天風呂:井川線・駅舎や山里の展望が良い・・!!

写052 接阻峡052雰囲気のある男性用露天風呂、(早朝につき、まだ未使用)

写053 接阻峡053男性用内風呂、(早朝につき、まだ未使用)



テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

初夏の「奥大井・接阻峡(せっそきょう)」を往く・・!!



初夏の「奥大井・接阻峡(せっそきょう)」を往く・・!!

 接阻峡(2):「八橋小道ロマンスロード」

写043 接阻峡043宮沢吊橋から眺める接阻峡の集落
(クリック大画面)


接阻峡温泉の宿に入る前に、「八橋小道」と言われる散策路で一汗流した。
「接阻峡温泉駅」の長閑な集落に本年(2008年)3月、新しく遊歩道が開通したとの事・・。
接阻峡・・・、“接するのを阻む”が如く急峻な奥大井の峡谷であるが、こちらの「接阻峡温泉」の集落は、それを感じさせない長閑な風景が展開している。
現在の緑の季節もいいが、秋の紅葉シーズンは素晴らしいだろうな・・!、そんな閑静な集落にこの度、遊歩道・ハイキングコースが改良開通した。 名称は八橋小道、ラブロマンスロードと愛くるしい名前も付いている。
大井川のダム湖を挟んでこちら側の県道沿いと対岸の山腹、右側に「南アルプス接阻峡大吊り橋」と左に接阻峡大橋を挟み、ゆっくり歩いて一周約1時間のコースであった。

(サムネイル写真は、クリックすると大きく見えるよ・・!。)

30 接阻峡030対岸の朱色の「椿橋」と2段の滝
31 接阻峡031吊橋の全貌
32 接阻峡032南アルプス接阻峡大吊り橋
36 接阻峡036吊橋より・・、カヌーの練習風景
37 接阻峡037山腹に延びる遊歩道
38 接阻峡038良く整備された架設橋「栃の木橋」
39 接阻峡洒落た造りの太鼓橋「椿橋」
40 接阻峡040椿橋の正面
42 接阻峡042階段型の吊橋・「宮沢橋」
43 接阻峡043宮沢吊橋から眺める接阻峡の集落
47 接阻峡047大橋たもとの園地にあるコース案内板


この遊歩道・ハイキングコースのスタートポイントになるのが県道沿いにある「ふるさと民族資料館:やまびこ」やトイレハウスであろう、駐車場も完備してある。
因みに、資料館は川根本町の人々の山と暮らしの関わりを紹介する資料館で、かつて生活を支えてきた林業の大井川流送の風景や、地元の伝統芸能梅津神楽の様子などを、ビデオや人形、展示パネルなどで解説している。 農具や生活用品も陳列され、土地の人の暮らしぶりがうかがえる。2階には長島ダム周辺の動植物の標本を展示。
電話で周辺状況など教えてくれるかも・・?。℡ 0547-59-4031、入館料:200円


次回は、 接阻峡温泉「森林露天風呂」の案内です。


テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

初夏の「奥大井・接阻峡(せっそきょう)」を往く・・!!  (1) 接阻峡:「大井川鉄道・井川線」

 

初夏の「奥大井・接阻峡(せっそきょう)」を往く・・!!

 

(1) 接阻峡:「大井川鉄道・井川線」

(クリック大画面)

接阻峡013 アプト式鉄道の急勾配・90/1000を喘ぎながら昇る「井川線」。

静岡市の北部・・、国道362号は安倍川支流「藁科川」に沿って北上する。
初夏の行楽シーズンには観光客の通過も多い山峡の国道であり、この終着が御存知、SL重連で有名な大井川鉄道の「千頭駅」である。
この先から、山峡の美景を堪能できる大井川鉄道・井川線、愛称「南アルプスあぷとライン」が大井川峡谷を突き進んで行くのである。

因みに、「あぷとライン」、「アプト式鉄道」というのは・・?、
ヨーロッパの山岳国であるスイス人のアプト氏(1850~1933)が発明した特殊の鉄道から命名されたもので・・、急坂を上下する時、すべりを防ぐため軌道の中央に歯を刻んだレール(ラック‐レール)を設置し、動力車に取り付けた歯車とかみ合せながら進ませる鉄道である。
国内では、1893年から1963年まで国鉄・信越本線横川駅~軽井沢駅間で使用されていたのは周知であるが、 現在は、国内唯一・存在するのが、この大井川鉄道・井川線、愛称「南アルプスあぷとライン」のみなのである。

急流で知られる大井川界隈は、お茶と木材の産地である。 その昔、伐採木を谷に集めて堰を作って水を貯め、堰を壊してその水流で木材を運んだ「てっぽう」(川狩りとも言われる)の工法が知られている。(接阻峡温泉;民族資料館・やまびこ)
その水運による木材運搬に代わって登場したのが大井川鉄道であり、更に、上流の発電所建設のための資材運搬用のトロッコ鉄道が「あぷとライン」へと変遷したのである。

日本一の急勾配、日本唯一のアプト式鉄道は、接阻峡・長島ダムの建設に伴い従来の路線が水没するため付け替えられたものである。 このダムの高さまで一気に上がる必要から「アプトいちしろ駅」と「長島ダム駅」間が1000分の90という急勾配となりアプト式に変わったそうです。
その際、アプト式鉄道の路線は出来るだけトンネルは避け、美しい大井川峡谷やダム湖に沿って走る観光用としても配慮したそうで、素晴しい渓谷美が堪能出来るよう配慮されているとか・・。

ゆっくり進む山岳鉄道は、沿線の豊かな大自然を満喫できる


千頭駅の時計の写真が示すように、定刻の10時35分、アプト式列車は駅を出発したので、我等も後を追うように県道388号線を出発した。
下記写真は、列車を追いかけながら撮影したものです。

(クリックすると大写真が見れます)

003大井川鉄道・中継駅「千頭」。

P1010004千頭駅基地に待機するアプト式専用貨車。

接阻峡005寸又川に架かる鉄橋を渡る。(県道77の「八木橋」から観る)

接阻峡008「あぷといちしろ」~「ながしまだむ」間、大井川峡谷から・・・

接阻峡010「あぷといちしろ」~「ながしまだむ」間、トンネルを抜けるといよいよアプト式鉄路へ突入する。

接阻峡013急勾配・90/1000を喘ぎながら昇る。

接阻峡015アプト式昇りを終えて、「ながしまだむ駅」直前の平坦路。

接阻峡021ながしまダムを後方に、旧県道とクロスするアプト列車。

接阻峡023「接阻峡温泉駅」に到着、始発駅「千頭」より凡そ1時間余。 この手前には長島ダム・接阻湖のほぼ中央部、「奥大井湖上駅」という観光用の絶景地駅も在る。 

接阻峡025山峡の地・終着「井川駅」。 駅には小さなお土産売店と軽食堂が有るのみで、 周辺には人家は無し・・。 200m程下部に巨大な「井川ダム」がそそり立つ。

 

接阻峡は、次回に続きます・・。

 

 



テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

旅と登山の検索コーナー
カスタム検索(サイトに合わせた検索結果を表示)
FC2カウンター
本文関連情報
本文関連情報
関連情報
最新記事
カテゴリ
プロフィール

mo

Author:mo
【小生の旅のリンク集】・・・

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
FC2ブログ   
C・掲示板   
FC2 H・P   
gooブログ    
yahooブログ 


《旅の紀行・記録集》・・・

「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・

【日本の世界遺産紀行】・・ 
北海道・知床・・  
白神山地・・ 
紀伊山地の霊場と参詣道・・ 
安芸の宮島・厳島神社・・  
石見銀山遺跡とその文化的景観・・ 

ハワイ旅行2007・・
沖縄旅行2008・・
北海道道北旅行・・
北海道旅行2005・・
南紀旅行2002・・

【山行記】・・・
《山の紀行・記録集》・・・

「山行リスト」 ・・
白馬連峰登頂記(2004・8月)・・
八ヶ岳(1966年)・・
南ア・北岳(1969年)・・
北ア・槍-穂高(1968年)・・
谷川岳(1967年)・・
丹沢山(1969年)・・
西丹沢・大室山(1969年)・・
八ヶ岳越年登山(1969年)・・
西丹沢・檜洞丸(1970年)・・
丹沢、山迷記(1970年)・・
上高地・明神(2008年)・・

《山のエッセイ》・・・
「上高地雑感」・・
「上越国境・谷川岳」・・
「丹沢山塊」・・
「大菩薩峠」・・

《スキーの記録》・・・
「スキー履歴」・・  

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。