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東北紀行(13)いわき湯本 「徳一と藤原氏」





 東北紀行(13)いわき湯本 「徳一と藤原氏」   、


前回まで大和地方における長谷寺、三輪山、大和の国、そして大和朝廷の来歴を述べてきた

ここで、「藤原氏」が登場する・・!。
これら大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 
「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。


常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。 
香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心である。
藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 
この地、鹿島は中臣(藤原)氏の本流の地で、海人族であったとも言われる。
鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 
武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。

余談ながら奇縁として・・、
大和・三輪山の麓に「相撲神社」が鎮座している。
この神社は日本大相撲の発祥地とされていて、かっての大横綱の大鵬と柏戸がやって来て、土俵入りをしたこともあるという。
昔々、この地に力自慢・當麻蹶速(タイマノケハヤ)がいて、もっと強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。 早速、垂仁天皇は出雲の国の野見宿禰(ノミノスクネ)を探し出し、二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催されたという。
試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わったとされている。


藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。
大化の改新」以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名である。 その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
不比等は、大宝律令の選修に参加、養老律令を完成し、又、日本書紀の成立を主導し、平城京遷都に際して興福寺を建立するなど、今の「日本国」を創った人、日本という国家の礎を築いた人物として知られる。
その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。

徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、直接政治には関わらず、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として、宗教を礎とした文化的な面で活躍したと思われる。

石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 
つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、石城の地・「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていたともされる。
「なこそ」とは、古語における「禁止」の意味で、現代語では「来るな」という意味だそうである。 古代、奈良期に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説もある。


九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であった。 道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。
仏教の普及が、古代からの信仰(主に自然信仰)と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。
藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出地とされる陸奥の南端では西の街道の会津地方であり、東の街道が「石城地方」であったのである。

徳一は、筑波山に中禅寺を、磐梯山に恵日寺を、そして「石城」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 
その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。 
徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城に「湯の岳」を開いたのである。 
領民のために、大和の三輪山を紹介して「サハコ神社」(温泉神社)を造らせたのかもしれない。

次回、いわき湯本の長谷寺



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東北紀行(12)いわき湯本 「古代・大和の国と纒向遺跡」

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 東北紀行(12)いわき湯本 「古代・大和の国と纒向遺跡」  ,






纒向遺跡群の代表的古墳:「箸墓古墳」(国土省)


三輪山の神は本来、旧来の豪族たちの神々(大国主神・国造りの神など)であったが、大和朝廷以降は天皇家の神々を祀った。 このため大地主神であった「大国主神」は出雲へ追いやられるのである。 しかし、後に三輪の神(大和天皇家の神)も伊勢の地に遷宮され、次の三輪の神になったのが「大物主神」であった。 
移ったのは皇祖神である「天照大神」が伊勢の神(伊勢神宮)であり、出雲では「出雲大社」であった。
三輪山の新たな主に収まった大物主神は、大国主神の別霊とされている。 
元より、三輪山は最大最高の神霊地(大国主神)なのであり、それが国内事情(政変)で反転したのが「大物主神」とされている。


ところで、最近の2011年1月付けの産経新聞によると・・、
『 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、「女王卑弥呼の宮殿跡」らしき遺跡が発見され、更に、この遺跡より大量のモモの種や各種遺物が見つかり、これらの遺物から判断するに、全て各地から食材や物が集まって神饌(神に供える飲食物)として供えられた遺跡物資である可能性が高いといわれる。 これによって纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことが明らかにされ、更に、この地が卑弥呼(ヒミコ)が在住した「邪馬台国」の最有力な候補地ではないか。 』、との報道があった。

更に、纒向遺跡の一端には、これも近頃ニュースになった箸墓古墳(はしはかこふん;宮内庁名は倭迹迹日百襲姫命・ヤマトトトヒモモソヒメノミコトの墓としている)も有り、この古墳は、この辺りでも最古級と考えられていて三世紀半ば過ぎの大型の前方後円墳で、建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓ではないかとする見方もある。 
因みに、卑弥呼は邪馬台国の女王とされ、その生涯年代は西暦175年頃? - 248年頃(在位188年頃 - 248年頃)とされている。 

元より桜井市周辺は、縄文時代から弥生時代のかけて土器の欠片(かけら)などが一般の野原や畑などでも掘り出されるなど歴史の深さと事実を窺わせる土地柄なのである。 
この地域は、神武天皇御陵(橿原神宮)や崇神天皇、景行天皇のものとされる大王陵など、弥生時代や古墳時代にみられる「前方後円墳」などの古墳が多く今日まで残されている。 そのことから周辺地域はヤマト王権(大和朝廷につながる王朝)の中心的な地域であったとされている。 それ以前には三輪王権(大和の豪族集団)とも言われるようである。

邪馬台国」の所在地については昔から近畿説と九州説があるが、近畿説を採用した場合、その根拠となるのが纒向遺跡であり、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとして注目されている。
この纒向遺跡は、奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、既に都市計画がされていた痕跡と考えられる遺構が処々方々で認められ、水を得るための巨大な運河などの大土木工事なども行われていて、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目され、既に政治都市としての形が出来ていたともいわれる。 

又、祭祀用具を収めた穴が30数基や祭殿、祭祀用仮設建物などのも見受けられ、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されていることも確認できるという。 
所謂、この地方は3世紀からそれ以前には既に「卑弥呼」を中心とする中央集中の国家体制が出来つつあったか、はたまた既に出来上がっていたとする見方である。
「纒向遺跡」は、その大きさからも七世紀末の藤原宮にも匹敵する巨大な遺跡であり、これこそが「卑弥呼」以降の「大和朝廷」の発祥の地にほかならないともいわれる。

纒向遺跡には20数基の古墳が存在するという。
このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、これらの古墳を総称して「纒向古墳群」といっている。
近年の、この地区の考古学研究の専門家たちの発表によれば、纒向古墳群の出土物の調査等から建造時期は三世紀半ばと推定され、これは卑弥呼が活躍した時期と一致するとの見方で、「邪馬台国・近畿説」を支持する論者たちは意気盛んなのである。
「纒向遺跡」は三輪山の麓、桜井線の巻向駅の至近に存在している。


「大和朝廷」発祥の地とされる奈良盆地南東部に所在する大三輪社(三輪神社)は、大物主大神を祀り、三輪山を神体(神体山)として成立したのであった。 
大三輪社は現在でも本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎみるという古神道(原始神道)の形態を残しているのである。
そして現在の三輪山山麓には、日本最古の神社といわれる大神神社をはじめ長谷寺、談山神社などの由緒ある社寺も数多く見られ、宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区となっている。

さて、話を元に戻しましょう。

次回、 「徳一と藤原氏



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東北紀行(11)いわき湯本 「大和国の仏と神」

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 東北紀行(11)いわき湯本 「大和国の仏と神」  ,



大和の長谷寺

いわき湯本の温泉神社は、奈良期の7世紀頃、神体山である「湯の岳」より降臨(神仏などの天下ること)して里宮として遷座したもので、後に、大和国・三輪神社(現、大神神社:現在奈良県桜井三輪)の主神を勧請し、祭祀されたとものいわれる。
三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と類似形をしている。 そして太古より神宿る山で、そのものが神体であり、原始信仰の対象であったとされるのも酷似しているのである。


奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、神仏混交、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 
そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。

日本において神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称した。 そこで三輪神社の神宮寺は、大神寺、通称、大御輪寺であった。(現在は、神仏分離で三輪若宮神社になっているらしい)
この寺院には天平国宝の十一面観音が祀ってある。 観音信仰の中心的菩薩である。
仏像の中でも大衆の信仰心を最も篤く受けてきたのは「観世音菩薩」であり、特に十一の面相を持つ十一面観音は、他の観音より強大なパワーを持つと信じられている。

その本尊・十一面観音の観音信仰の中心は「長谷寺」であるが、その根本御堂が三輪神社・三輪山の東に位置する大和・初瀬(泊瀬)川の「長谷寺」であることは興味のある方は周知である。 
初瀬川は聖なる川といわれ、初瀬が生じて「はつせ」・「はせ」・「長谷」になったとされる。 初瀬川は長谷川でもある。
三輪山の神に仕える巫女、彼女たちが禊ぎをするのが初瀬川であり、「長谷寺」の興りはこの三輪山と初瀬川ともいわれる。 
三輪山のご神体が初瀬川で生まれた「龍神」であり、龍神信仰と結びついたのが長谷信仰の根本である「十一面観音」であった。


大和の大神神社 ,
三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。 ではそれ以前は・・? 
旧態豪族の住む地であったとされ、ヤマト王権の初期の三輪政権(王朝)が存在したものと考えられているという。

神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し、奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになった。(古事記、日本書紀の記録による。 歴史的には邪馬台国の東征ともいわれる) 
更に、平定が日本全土に及ぶと大和の国と呼び習わすようになった。 
「大和朝廷」の都の成立であり、歴代大王=歴代天皇家の地となった。

その信仰の中心的支柱が「三輪山」であった。 
記紀には、『その神、大御和(おおみわ)の神奈備(かんなび)に坐せ』とあり、つまり、「大御和の神奈備(三輪山)に大物主神を御祀り申し上げた」と記載されている。 大神(おおみわ)神社である。
大御和(おおみわ)、大御輪(おおみわ)、大神(おおみわ)、大三輪(おおみわ)の関係がチョッとややこしいが・・、 本来、奈良の地域を古代には大御和の地と呼ばれていたらしく、この地に大神(おおみわ)神社が祭られ、地域名も「大御和」変じて「大和」になった、とする見方もある。 一方、この地域を三輪地方とも称している。
現在、この三輪山の麓である三輪地方はどのような土地柄になっているのだろうか・・?、序ながら次回に記載したい。

次回、古代の大和の国  、


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東北紀行(10)いわき湯本 「徳一と長谷寺」

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 東北紀行(10)いわき湯本 「徳一と長谷寺」  、





いわき市常磐上湯長の「宇治山・長谷寺」



高僧・「藤原徳一」と長谷寺について 、 

湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。

長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文の古文書が記されていて、その中に『奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也』とあって、徳一建立が明記されている。 
この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって『神明鏡』(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記。時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている)と比較すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年~809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる格式のある寺である。
つまりは、中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。

徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・? 、
それは、前項「石城地方」でも記したとおり歴史的必然性もあったが、更に、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないとされる。
徳一の故郷・大和の都(奈良)には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。

湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった。 標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。
古代、湯嶽(湯岳)を三箱(さばこ)山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる湯の岳を仰ぎ見て、「三学の箱(函)」を納入したことから、この地名が付いたという伝説もある。

中世には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、それに因んで山麓地域は「三函」という地名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称されていたという。
三学」とは戒・定・慧(かい・じょう・え)のことで、仏教の実践の三大綱要で戒学・定学・慧学の仏道修行の根本を三学をいう。
つまり善を修め悪を防ぐ戒律と、精神を統一する禅定と、真理を悟る智慧をいう。
湯の岳の中腹にその所伝とされる観音堂跡があり、この観音堂こそが徳一の根本道場の一つだったことを物語っているといわれる。 つまり、この山全体が徳一観音信仰の霊場だったようにでもある。 
徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺、筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。

三函(サハコ)の地名は、今も湯本の町内に住所名として存在するが、「長谷寺」の所在地は上湯長谷である。 読みは「かみゆはせ」ではなく、「かみゆながや」と称している。
湯長谷(ゆながや)」の「長谷(ながや)」は、当然、長谷寺の「長谷(はせ)」に由来する。 
因みに、隣地に「下湯長谷」もある。 
湯の岳に向かって近いの方、つまり上の方が長谷寺の在る上湯長谷であり、遠く下の方が下湯長谷地区である。

これら、いわき湯本の「湯の岳」、「長谷寺」の根本由緒とされる大和の国の長谷寺や三輪山について、更に次回に述べることにする。

次回、大和の国の「仏と神



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東北紀行(9)いわき湯本 「石城地方」

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 東北紀行(9)いわき湯本 「石城地方」  、



古代・石城地方は、蝦夷(えみし)の勢力と大和朝廷の勢力が拮抗していた地域であった

小生の実家は、昭和の初期までは福島県石城郡湯本町であった。 
石城郡は、1966年(昭和41年)に市域、郡域が全て合併し、今は平仮名の「いわき市」になって消滅している。 「石城」は「いしき」ではなく「いわき」である。
「いわき」は、古事記、日本書紀、風土記に表れる古来の和字は「伊波岐」とも記されていたらしい。
古代から中世にかけて「いわき」は、磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあったらしいが、本来は石城である。 
「続日本紀」(平安初期の歴史書)には陸奥国石城郡と書かれているし、それが昭和の年代頃までは福島県石城郡・・、であった。


古代、大和朝廷の北への開拓は、「日本武尊」の東征では相模国から安房国、常陸国あたりの道筋とされているが、その後も石城から、次第々々に北に向うのである。
古代・石城地方は、蝦夷(えみし)の勢力と大和朝廷の勢力が拮抗していた地域であり、やがて、東征後は大和朝廷の傘下に治まり防衛前線基地となったとされてる。 所謂、大石を並べて城塞化したのが石の城・「石城」であり、古代の築城施設であった名残りが石城となったのだろう、と唱える先生方もいるようである。

石城地方は、古くからは関東圏に内包され、東北地方ではもっとも早く開発されて、既に大和朝廷の息がかかった地域でもあった。(元々は常陸の国の一部、そしてその後は隣国であったことも影響している) 
弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると、石城地方がある時期、東北地方でもっとも豊かであったらしい。 
季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


東北南部は、蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、新勢力とされる朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(平城京)へ向かおうとした地域とされている。 だが、日本武尊の東征(東国の蝦夷遠征)や平安初期の「坂上田村麻呂」により遮断されるという動乱も起きている。 
石城地方は、それらの旧態勢力と新規勢力の抑えの拠点であり、この地に石城軍団が置かれていて、石城の大領(たいりょう:平安初期における郡の長官のこと・陸奥国磐城郡の大領)・磐城雄公が配され、天皇から從五位下という官位まで受けている、という記録もあるようである。

大和朝廷の東北進出は、はじめ武力が主であったが経営的には文化の両面からも行なわれたであろうといわれ、その文化の面では特に「宗教」に力を入れたのではないかと思われるのである。
飛鳥時代の初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の詔が出されるまでに到る。 後に、布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は仏教教化の重要な拠点であったのではないかとも言われ、その中の一人に「徳一」という名僧がいたことは史実でも明らかにされている。

徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男と伝えられている。 
初め東大寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下った。
新興宗教の空海とも相容れず、最澄との間で一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)を展開したことは有名である。 
この間、陸奥国会津、常陸国筑波山など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。

次回は高僧・「徳一と長谷寺」 



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東北紀行(8)いわき湯本 「大和・三輪大社と湯の岳」

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 東北紀行(8)いわき湯本 「大和・三輪大社と湯の岳」  ,







いわき湯本の湯の岳と酷似している大和の「三輪山」


因みに、温泉神社の元宮、本社である大和の国の「三輪大社」について

現在は大神神社と称されていて、読みは「おおみわじんじゃ」・三輪明神とも呼ばれている。
奈良県桜井市にある由緒ある神社で大和国・一宮であり、大物主神(おおものぬしのかみ:大国主命の同義とも云われる)を祀っている。
日本神話に記されている創建の縁起などから、出雲系の神社で「日本最古の神社」を称し、少なくとも大和国においては最も古い神社の一つであると考えられている。
現在でも、神殿、本殿は置かれてなく、拝殿から奥にある三ツ鳥居を通して御神体である「三輪山」を拝するという原始形態の神祀りの様式をとっている。
神意は、国造りの神様として農業、工業、商業すべての産業開発、 方位除、治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、 世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神として 尊崇されている。 

その神威は、全国に亘り、古くは朝廷の鎮護として尊崇されていた。
後背に控える三輪山は縄文時代、あるいは弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。 特に、古墳期(大和朝廷が誕生し日本国として統一された時期で弥生以降、飛鳥以前の時代)にはいると山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた形跡があり、そのことから、この一帯を中心として日本列島を代表する政治的勢力、つまり、ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したものと考えられているという。


この三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」よりやや低いが酷似しているのである。
三輪山は太古の昔より神宿る山とされ、山そのものが御神体であるとの考えから、常人は足を踏み入れることの出来ない聖域とされた。 所謂、禁足(きんそく)の山で、江戸時代には幕府より厳しい政令が設けられ、神社の「山札」がないと入山出来なかったという。

明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山出来るようになったが、登山を希望する場合は、社務所にて許可を得、入山届けをして「300円」という入山料を納めなければならない。 
そして参拝証である白いタスキを受け取り御祓いを済ませ、道中では、このタスキを外すことは禁止されているという。 

通例、2時間ほどで下山出来るが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。 また山中にては、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止されているという。
この神域には数多くの巨石遺構、祭祀遺跡も散在するが、これに対しても原則として許可なしに撮影も出来ない。
さらに山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧や刃物を持入れすることは許されていない。 一般には入山せずに参拝することが多く、拝殿から三輪山を仰ぎ拝むといった手法をとっている。

正月の初詣ともなると、至近のJR桜井線の三輪駅は駅構内まで行列が続いていて、駅に降りたら、そこが参拝の行列の最後であったともいう。 ひどい時なんかは電車の中まで参拝客の行列が続いていて、電車は参拝客が全部降りきってしまうまで、1時間も駅で止まっていたこともあったという。

三輪山、大神神社は、さすがに我が湯の岳、温泉神社の本社聖域であることから、尊厳と格式か今でも存在することは、ただ、感服するのみである。
三輪地方は、御存じ「三輪そうめん」の故郷でもあった。
いわき湯本の「温泉神社」や「湯の岳」には、このような深い歴史が潜んでいたことに驚きであったが、更に深い因縁が含まれていたのである。 それは次回へ・・、

次回は 「石城地方


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東北紀行(7)いわき湯本 「湯の岳と温泉神社」

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 東北紀行(7)いわき湯本 「湯の岳と温泉神社」  、









「湯の岳」と、いわき市湯本三函に鎮座する「温泉神社」


我が故郷の温泉地としての守り神である「湯の岳と温泉神社」について少々述べてみよう。 

我が故郷、古巣は湯本駅を降りると左方向に在する。
温泉神社の方向はその逆で、常磐線の「湯本駅」から右方向、天王崎を過ぎると間もなく左に石柱で造られた鳥居が在り、鳥居を潜って石段を上ると立派な社殿が現れる。 
温泉神社」である。
少年時代には良くこの辺りで遊んだものである、というよりこの辺りは中学校(湯本第一中学校)への通学途上でもあった。 
五月の初頭に行われる例大祭の「さつきまつり」は、地域住民の最大の楽しみであった。 
現状は定かでないが、当時は温泉に感謝するため、各旅館が温泉を樽に汲み入れ神前に奉納する「神社献湯式」が本殿で行なわれ、大小の神輿や長持(衣服・調度などを入れて保管したり運搬したりする長方形で蓋のある大形の箱で、江戸時代以降さかんに使われもの。神事・婚礼などで長持唄を唄いながらゆったり運ぶ)、その他の祭事で大変賑わったのも記憶している。

温泉神社は、旧来の地名に因んで佐波古神社(現在は湯本町三函)とも称し、社家にも伝わる。
その「神幸由来記」などの古文書によれば、神代の昔、『湯の岳』が御神体山であり信仰の山であって、白鳳年間(奈良期の7世紀頃)、この「湯の岳」より降臨(神仏などが天降ること)して里宮とし、遷座されたと記されている。
言伝えや伝説によると、日本武尊が東征のため当地に進駐の折、大和国・三輪大社(現在奈良県桜井三輪)の主神・大物主神(オオモノヌシノカミ・大巳貴命・大国主命)を勧請、分社し、少彦名命(スクナヒコノミコト、神話時代の国造りの神:大国主神とともに全国を回って国土を開拓した神とされている。医薬の神)と共に合祀されて、以来二神が郷民によって祀れたという。

祭神は地下資源の神、医薬を司る神で湯本町の鎮守様として広く崇敬をあつめている。
その「湯の岳」は、我等町民の山であり、常磐道のいわき湯本I・Cのすぐ横に聳える山で、稜線は弧を描いたなだらかな緑豊かなの山である。 
我等の小学校、中学校の校歌にも詠われ、小生が小学校5、6年の時はクラスが五組であったので「ゴクミ・593」、つまり標高が593mであったのを今でも記憶に有り、印象に残っている。

次回、大和・三輪大社と湯の岳 、


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東北紀行(6)いわき湯本 「映画:フラガール」

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 東北紀行(6)いわき湯本 「映画:フラガール」  、










スパリゾートハワイアンズ(2枚)


映画・「フラガール」のポスター



我が故郷の「いわき湯本」が映画になってしまったのである、「フラガール」である。 、

この別世界を題材にした「映画」が近年製作されて話題を呼んだ・・!!。
「いわき湯本」が映画になってしまったのである。 「フラガール」である。
「フラガール」は、昭和40年代の福島県いわき湯本の常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)が苦難の途上、オープンするまでの実話を背景に描いたものである。
炭鉱の娘たちとの友情と再生を通して人の”命の輝き”を描いた映画は2006年の秋、全国一斉に公開された。 小生も早速拝見したが感動身にしみる出来栄えであり、何よりも正確とは言い難いが、地元いわき地方の独特の「訛り、方言」が心地よかった。

物語は、昭和40年代の炭鉱不況下の出来事から始まる。
いわき市の常磐炭鉱が不況のあおりで大幅な規模縮小に追い込まれた。 
危機的状況の中、炭鉱で働く人々は職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業として立ち上げたのが常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)という、突拍子もない娯楽施設であった。
この施設の誕生から、炭鉱の娘達が散々多々苦労を重ね、成功までの実話を丹念に描いたもので、ハワイアン・ミュージックと本格的なフラダンスがチョットお色気を誘いながら描かれているのが良い特にラストシーンは、センターハウスの温泉大プール横のメインステージで踊るフラガールの面々と、ソロで踊る主役の「蒼井 優」が美しく悩ましく、圧巻であった。

そして最後の字幕に『10年後の1976年(昭和51年)常磐炭鉱は完全閉山、延べ4400人余が解雇された。この40年もの間に常磐ハワイアンセンターに立ったフラガールは総勢318人、平山まどか(松雪泰子演じるハワイ舞踊の教師、現在、常磐音楽舞踊学院最高顧問)は70歳を超えた現在も尚、東北のハワイで彼女達の育成に励んでいる』と結んでいる。

監督:李相日(日系三世・韓国人)
出演:松雪泰子、蒼井優、豊川悦司、富司純子、岸部一徳、山崎静代(南海キャンディーズ しずちゃん)ほか
音楽:ジェイク・シマブクロ(ハワイアンミュジックの第一人者)

公開前はそれほど注目されていなかったが、口コミによって評判が伝わり、ロングラン上映をする劇場が多く、特にスパリゾートハワイアンズのある「いわき市」の劇場では連日満員だったという。 
最終的には目標を上回る観客動員120万人、興収15億円という大ヒットとなった。
近年滅多に邦画を賛えることのなかった、映画評論家でもあるタレントの「おすぎ」氏が、久々に賞賛した映画としても話題となった。
第79回アカデミー賞の外国語映画賞の日本代表に選出されようとしたが、残念ながら本選の第1次選考で落選した。 
しかし、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞に選ばれた。 
かっては大手映画会社4社(東映、東宝、松竹、角川)以外の作品が受賞するのは1996年の「午後の遺言状」(日本ヘラルド映画)以来11年ぶりであるという。

第30回日本アカデミー賞;最優秀作品賞受賞及びその他の作品・個人賞多数。 
第80回キネマ旬報;ベストテンの邦画第一位 、 
読者選出邦画ベストテン;第一位、助演女優賞・蒼井優、 
第31回報知映画賞;最優秀作品賞、最優秀助演女優賞・蒼井優 、 
第19回日刊スポーツ映画大賞;作品賞、主演女優賞・松雪泰子 、助演女優賞・富司純子、新人賞;蒼井優などなど、 

映画の舞台でもあった「いわき市湯本」にある「いわき市石炭・化石館」では、企画展として「あの感動をもう一度・・、フラガール展」などが開催されることとなったという。
尚、常磐ハワイアンセンター改め、現在の「スパリゾートハワイアンズ」は、露天風呂だけでなくプールやエステなども併設し、家族連れだけでなく、若い女性たちで連日大盛況だという。
小生も2005年秋、法事で田舎を訪れ、家族、身内一同でスパリゾートハワイアンズで遊興、同ホテルを利用している。
因みに、小生の菩提寺(白鳥山龍勝寺、・・前述)からハワイアンズまでは凡そ3km、車で5分のところである。

次回、湯の岳と温泉神社


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東北紀行(5)いわき湯本 「湯本温泉」

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東北紀行(5)いわき湯本 「湯本温泉」 、














湯本駅と湯本駅前、温泉施設「さはこ湯」


一方、炭鉱にとって煙たい(石炭だから・・?)存在だった湧出する温泉は、逆に脚光を浴びた。
元より「湯本温泉」は、平安初期には開湯されたと言われる。
湯本温泉は「三箱の御湯」と呼ばれ道後温泉、有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていた。 
但し、一般にいわれる日本の三古泉は、「万葉集」「日本書紀」「古事記」など歴史上の文献に数多く登場している有馬温泉(兵庫)・白浜温泉(和歌山)・道後温泉(愛媛)とされている。

湯本温泉で最も古い記録は、平安中期の延長5年(927年)、延喜式神名帳に「陸奥国石城郡小七座・温泉(ゆ)神社」(通称・おんせん神社)と記してある。 しかし、奈良時代に石城国が設置された時に、その名が記されていることから、開湯はそれ以前の奈良時代に遡るとも言われる。
中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は陸奥・浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったという。 当時、岩城、佐竹、田村氏などの戦国領主が湯本に湯治に来ていたことが記録されている。
また、江戸期には鳥居・内藤氏の所領であった時期、浜に街道が整備されたとき唯一の温泉宿場として大いに栄え、年間約2万人前後の浴客で賑わったともいう。 

当時の温泉は、地表に勢い良く湧出していたとされる。 
だが、明治期になると常磐地区で大規模な石炭採掘が始められ、坑内に湧出する温泉を汲み上げため温泉面の低下を来し、大正期には湯脈が断たれ温泉町として機能を失ってしまったという。 そして石炭産業が斜陽になってからは、再び、温泉揚湯会社を設立し、毎分5トンの揚湯を確保したという。

幸いなことに現在は揚湯にも拘らず、年々温泉面は上昇しているとのこと。
源泉は、石炭採掘の為の後遺症で現在自噴箇所はないが、地下数十メートルぐらいまで湯面が上がってきているといわれ、 揚湯量は毎分5トンを超え、町内の地下パイプを通し各施設に配湯し、浴槽の吐湯口で50度以上を保っているという。 
今で言う、「源泉純粋かけ流し」であろう・・!。
泉質は全国的にも珍しい「含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉」俗称、硫黄泉で、「美人の湯」(美肌作用・解毒作用・末梢血管拡張作用)、「心臓の湯」(血圧を低下させる~動脈硬化、高血圧に効く)、「熱の湯」(高齢者向き~保温効果が高い)を始め数々の効能を併せ持っているといわれる。


湯本駅前から温泉通り沿い、温泉神社前通りに温泉街が広がる。 
旅館、ホテルは駅前地区と御幸山地区に軒を並べ、その数およそ30軒、その他の宿泊施設を合わせると50数件にもなる。 共同浴場は3軒存在し、足湯もある。
その中で温泉神社前にある「さはこの湯」は、日帰り入浴施設として町民や観光客親しまれている。

その絶え間なく噴き出る源泉は、レジャー・保養施設、宿泊施設のみならず、今は一般家庭にまで引湯され、昨今の温泉ブームにのって街は活況を呈しているとか。
特に、炭鉱閉山の後は、同経営母体・常磐興産が大量湧出する温泉に眼をつけ、常磐ハワイアンセンター(現、スパリゾート・ハワイアンズ)なる常夏の大温泉レジャーセンターを設立し、全国にその名を知らしめた。

スパリゾートハワイアンズ」は遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設であ、ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設があり、特に、中央メーンステージでは、ここの一番の呼び物のその名の如く「フラダンスショー」が定時的の演ぜられる。 
建物は、鉄骨ガラス張りの大ドームが特徴的である。主な施設としては、水着で入るスプリングタウンには中世の南ヨーロッパ風ドームの男女別共同風呂を中心にジャグジー、ミスト、打たせなど各種の風呂もある。 
屋外へも繋がっていて、そこには温泉の川や洞窟プロムナード、パノラマサウナがあって木々や岩などが配され南国ムードを一層盛り上げている。
又、「江戸情話与市」は、ギネスブックに登録されたといわれる世界一広い露天風呂であるとのこと。

次回、映画「フラガール


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東北紀行(4)いわき湯本 「常磐炭鉱」

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 東北紀行(4)いわき湯本 「常磐炭鉱」  ,


我が故郷「いわき湯本」は本格的な温泉場として全国的にも著名になっている。 そして昔は常磐炭鉱で栄えた街でもあった。
小生はこの街で幼少より20代前半まで、こちらで営々としていたのだが。
ただ、生まれは満州国・奉天市(今の中国東北部・瀋陽)であり、終戦後、引揚げてきて父の故郷である「いわき湯本」へ住み着いたのであった。

いわき湯本の地方は東北地方でも降雪が少なく、比較的温暖な地域で、古くから温泉を抱える保養地として発展した。
又、炭鉱の町として一時期黄金時代を築いたが、1970年代に完全閉山している。 その跡地には1966年に常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)などが建設され、「常磐のハワイ」として人気を誇っているのは周知である。
その過去のものとなった懐古・常磐炭鉱と湯本温泉についてチョッと詳しくのべてみよう。


常磐炭鉱

湯本」は文字通り古い温泉の街である。
そして、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街で、日本のエネルギー産業の柱であった「黒いダイヤ」と云われた石炭産出の街であった。
明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。 これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目、期待されたためでもあった。 
昭和中期の頃は、石炭はいくら掘っても間に合わぬ好況ともいわれた。
常磐炭田の鉱山は、常磐地方(常陸:ひたちと磐城:いわきの頭文字を合わせた地名)一帯に広がり、関連会社60社、大小あわせて130の炭砿が稼働し、一時は年間産出量400万トン以上、貯炭は450万トンに達していたという。 

国内の採炭分布では北海道、九州が大勢しかを占めているが、本州では常磐炭田が唯一大規模の採炭量を誇ったという。 
しかし、北海道や九州に比べて硫黄分の多い炭質という不利な条件があり、更に地層が激しい褶曲(堆積当時は水平であった地層が地殻変動のため波状に曲る現象)を受けていた掘削は石炭層を求めて地下へ地下へと掘り下げる必要があり、特別な技術を要する炭鉱でもあった。
遂には次第にコスト的に負担がかかり、各鉱は採算が次第に悪化していったともいう。 
しかも、この石炭を掘り出す際、この湯本地区は同時に温泉が湧き出てきて、掘り出すのに相当に難儀をしたらしい。
その後、化石燃料の変化にともない石炭は次第に斜陽の追い込まれ、経営的にも苦難を強いられ次々と閉鎖していった。 最後まで残った常磐炭砿(後の常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、国内の石炭業自体も1985年に全面撤退している。




写真:石炭化石館

今は、「石炭化石館」として、往時の常磐炭田の採掘の歴史や産出化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示している。  
中でも、中生代の「フタバスズキリュウ」という海に住んでいた首長竜の化石がこの町から出土し、原形を復元された姿での化石が展示されている。 その巨大なモニュメントが玄関前に設置されている。

次回、いわき湯本 「湯本温泉


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東北紀行(3)いわき湯本 「白鳥山・龍勝寺」

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 東北紀行(3)いわき湯本 「白鳥山・龍勝寺」  、








我が家の龍勝寺墓地と阿弥陀堂


序ながら、わが菩提寺・龍勝寺についてチョッと述べてみよう。
いかにも田舎の風情漂う静観な山間に、境内・寺院が在る。 寺院は当地区、旧湯長谷藩の菩提寺でもあったらしい。
「龍勝寺」と同系の寺院で、同地区内の藤原町に「建徳寺」があり、何れも臨済宗の狭義をもち、大本山は京都の妙心寺に置いている。 
臨済宗」(宗祖・栄西)とは禅宗の一派で同系に「曹洞宗」(宗祖・道元)があるが、特に、鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(ぜんでら、禅宗寺院)が建てられるようになったという。
この二つ宗派には広がり方に特徴があるといい、曹洞宗が地方豪族や一般民衆に中心に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権や武士に支持され、政治・文化に重んじられた。
両宗派とも平安末期から鎌倉期に始まり鎌倉、室町に絶頂期を迎えるが一時衰退し、その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。

禅宗とは、一般に座禅を組んで悟りを開くといわれるように、実践的宗教観に裏打ちされたものという。 教義の説明はいくらでも可能であるが、実践がなければ机上の空論という教えだ。
実践的というのは、例えば詩歌や絵画を始めとした芸術的な表現の上にある「悟り」や、芸術以外にも茶の湯や生け花を始めとした立ち居、振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、「悟り」の世界を味わうという手段も生まれているとされる。  つまり、この「悟り」こそ武士道に通じるものとされ、武士の信仰対象として臨済宗が重宝がられたという。 
京の妙心寺各派の寺院もそうであるが、日本でも最初に興ったとされる武士の府である鎌倉には、ご存知、建長寺(建長寺派)や円覚寺(円覚寺派)といった大寺院に代表される鎌倉五山に禅宗文化の華が開いた。


前置きはさておき・・! 、
しかしながら、我が家の菩提寺・妙心寺派の龍勝寺を檀那寺に選んでいるのは臨済宗を特別信仰しているのではなかった。(・・と思われる)それは江戸期に発布された「寺請制度」(檀家制度ともいう)によるものと推察される。

「寺請制度」とは、江戸初期の頃の徳川幕府の施策であり、当初はキリスト教禁制を徹底させる目的で、人々を寺院に帰属させ、証明させた制度であった。 従って、発令された後は、必ずどこかの寺院の檀家に属さなければならず、葬式も仏式を強制させられた。
寺院では現在の戸籍に当たる「宗門人別帳」が作成され、併せて出生・死亡・旅行・移転・婚姻・奉公などの今で云う戸籍届けや変更も義務付けられた。 つまり、これら個人情報を寺院が管理し、生活をも監視するシステムであった。
これらによって各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院には一定の信徒と収入を保証される形となった。

しかしながら一方では、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教示を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団(未だ神仏習合の時代)が幕府の統治体制の一翼を担うこととなる。 僧侶を通じた民衆管理が、法制化され事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなってしまったともいわれる。(現代で言う官僚機構の腐敗)  この事が、明治維新時に極端なまでの「廃仏毀釈」を招く結果になったともいわれる。

しかし民衆は、「寺請制度」が先祖代々その家の宗教として受け継がれ、現代でもお葬式の約8割は仏式で行なっているという。 元々日本は神の国であり、本来は神式の葬式が仏式よりも多くなければおかしいが、現代でも仏式が圧倒的に多いのは江戸時代より供養は仏式という構図が出来上がってしまっているからだという。
つまり我が家を含めて一般に、檀那寺と檀家の関係は信仰心に関係なく、或は、半強制的に入信させられて、その地域の寺院に帰属したのであった。


参道から山門をくぐった左手に「阿弥陀堂」が在り、ご本尊は珍しく胎内に納めた「腹ごもりの阿弥陀尊」という弥陀三尊が安置されている。 
阿弥陀堂の建立は明治42年といわれるので決して古くはないが、この小さな「胎内仏」そのものは作者、年代ともに定かではなく、かなり古いものだと推測されている。 
一般的に胎内仏は、亡くなった人の冥福を祈って仏像を造るとき、故人がいつも祈っていた小さい仏像をその中に納めるもので、平安時代以降にそれらの傾向がみられるという。 
彫像のほかに摺仏(すりぼとけ:仏・菩薩などの絵を、紙や布に木版刷したもの)、画仏を納めた例もあるらしい。

この寺の胎内仏には、「見ると目がつぶれる」という奇妙な言い伝えがあるとも言われる。
その訳は何となく判るような気もするが・・?。 
やはりというか、普段は堂内の安置所は閉ざされ、仏像を見ることはできない。

因みに、阿弥陀三尊とは阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩を左脇侍、勢至菩薩を右脇侍とする三尊形式である。 観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。 
なお、この場合の「左」「右」とは中尊から見た「左」「右」を指す。
お寺は臨済宗妙心寺派で、本山は「京都・妙心寺」である。

その菩提寺・「龍勝寺」からほんの2km足らず、5分ほどで湯本名物・「スパリゾートハワイアンズ」が丘陵地の一角に、華やかな別世界を形造っている。 これは後ほど
 
次回、「湯本温泉と常磐炭鉱



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東北紀行(2)いわき湯本 「最近の霊墓事情」

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 東北紀行(2)いわき湯本 「最近の霊墓事情」  ,

墓地、墓標といえば、しばしば寺院、霊園などの広告に永代供養を謳うものが多い。 だが、「永代」という言葉の使用によっては誤解やトラブルが多いらしい。 実際には10回忌、30回忌や50回忌までといった内規制限がある場合が多く注意が必要ともいわれる。 又、霊園の倒産、寺院の廃寺などによりこの「永代」も保証される訳ではもちろんない。
元来が永代供養というのが、江戸時代に檀家の減少を補う目的で僧侶が発案した商業手法であり、本来は毎月の命日に小額ずつ受け取っていたお布施をまとめて集金する当時の新システムなのであった。
現在の永代供養もその名残であるが、商品である以上、言語表現の誤認防止や費用の表示の透明化など早急な法の整備が望まれているという。

尚、墓苑、墳墓、墓石は遺体や遺骨を埋葬する場所は「築く」といい、その位置や故人の名を刻んだ墓石や塔は「建てる」という。
これを建てた人という意味で建立者の名を刻む場合は、ほとんどが「建之」の字を当てられる。 何れにしても、墓地は生前を明かす、故人となった記念の碑でもある。

日本では、墓前の法要や年中行事になっているお彼岸やお盆といった風習があり、周回の法要や時の春秋の中日を境に墓参して霊を祀ったり、「霊が先祖帰りして子孫と交流する」といった行事が古来から存在する。
特に、春分の日・秋分の日がそれぞれ国民の祝日となっているように、日本独自の仏教行事であり、「国民の休日に関する法律」には、「先祖を敬い、亡き人を偲ぶ日」とされ、本来一家揃ってお墓参りをすることが行事の一つとなっている。
この祭り事を現代人は国民の休日は忘れないが、これら行事についてはつい忘れがちか、故意に葬り去ってしまう傾向があるようだ、大事にしたいものである。

何れにしてもお墓参りをする機会があり、それを実行することは個人やご先祖を懐かしみ、亡き人の徳を追憶し、冥福を祈ることである。(追善供養) そして、合わせて「己の功徳を積む」ことにもなる。 
それは仏教界の教えばかりではない。
日本人として霊の証しとなる墓碑を持ち、定期的にその地へ訪れ、霊を祀る心だけは失いたくないのである。

次回、白鳥山・龍勝寺



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東北紀行(1)いわき湯本 「田舎墓参」

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 東北紀行(1)いわき湯本 「田舎墓参」  ,

在住が神奈川県厚木市であるため福島県の「いわき」へマイカーで向かうのには、東名高速、都心首都高速、そして常磐高速が一般的である。 ただし、東京都心が渋滞する場合は、最近(2010年)完成した大橋JCTから中央環状線を利用して三郷JCTへ迂回するルートもある。
今日は日曜日の早朝でもあり前者がよかろうと思い、無事渋滞も無く通過することができた。

6時過ぎに自宅を出発し途中、常磐道のS・Aでゆっくり朝食を摂りながら、我が故郷・いわき市湯本へ着いたのが午前11時前には着いてしまった。 
いわき湯本ICから10分もしないで本家(父親の出生地)に到着、仏前と主人へ挨拶、少々の談話を交わす。 その後、白鳥町の菩提寺・龍勝寺の墓地へ向かい、簡単な清掃と献花、焼香、拝礼を行った。

田舎の墓地、墓参 ,
年に最低一度と心得て、田舎の地への墓参であった。
我家の両親と兄弟が眠る墓、墓地は福島県いわき市白鳥町の寺院にある。 だが現在、我が家族は神奈川県周辺に在住していて、墓地と在住地は遠隔の地である。 従って、お墓の管理とお墓参りは疎遠になりやすいが、最低でも年に一度は参ろうと心に決めている。

ただ、有難いことに我が家の親類縁者(従兄)がお寺の近隣に在住しているので、お墓の管理などの面についてはチョッと甘やいでいるのだが。
しかし、何れも高齢の身になりつつあり、次世代になって遠隔地にある墓地はどうなるのか、些か思案するところでもある。 遠地にある墓苑、墓地は年月が経るに従って、無縁仏に成るようなことも最近では報じられていて、そのようなことは余りにも忍びないのである。

因みに、一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されるが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てくる。
こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりする。
無縁仏は、「三界萬霊塔(さんかいばんれいとう)」という石塔に埋葬されているところもあるという。
たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりすればいずれ無縁仏と化す。 確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどるともいわれる。
一部にはこうした考えを背景に墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの方法で、直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もあるようだ。
これは都市部などに見られる墓地不足、墓園や宗教団体の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による管理維持への不安なども背景にはあるのだろう。

次回、最近の霊墓事情



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東北紀行 「はじめに」

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 東北紀行 「はじめに」  .


過ぐる年に北海道、沖縄を含めた日本一周旅行を試みた。
一周なので主に沿岸部が主体であったが、今度は内陸部を主体に主なところを訪ねてみようということで、取敢えず小生の出身地でもある東北地方を試みることにした。
小生の現在の居住地は神奈川県(厚木市)である。 
出身地が福島の「いわき」なので、当地で先ず先祖の墓参りをいたし、其の後、福島県の中央部、宮城、岩手の中央部、更に秋田、山形の中央部を巡り、福島の会津へ到った。 
道中の第一の目的は「観光」なので、チョット著名な温泉などに浸かりながら土地々々の主な出来事や小史を併せて尋ねてみた。
尚、小生の「日本周遊紀行」をはじめ、併せて各地旅行記録、国内世界遺産、山紀行などホームページ、ブログを下記に載せておりますので参考にしていただければ幸いです。


東北地方・「序」

古代、律令制(大宝、養老律令)が実施されてから日本という国名が付けられた。 併せて、国の形や境界、地域国名、往来道路の名称が付された。
其の中で北の地、東北地方には陸奥国、出羽国という二つの地方国が置かれ、これが江戸時代まで続くことになる。
陸奥国と出羽国の領域に相当する地域を、両国の「奥と羽」をとって「奥羽地方」とも言った。

陸奥国の国府が仙台平野の多賀城に置かれ、出羽国の国府が庄内平野の酒田に置かれたが、ことでわかるように、陸奥は「内陸国」の、出羽は「沿岸国」の傾向が見られる。
太平洋側(陸奥国)は、平野部がいわき市周辺、仙台平野、八戸周辺のみと乏しく、波も荒く海流も強いため、陸上交通は関東地方との関わりが深く「内陸国」としての歴史が綴られている。
一方、日本海側(出羽国)は、沿岸に庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野と、内陸部につながる沿岸平野が、ほぼ均等な間隔で存在しとぃる。 日本海の北前船に代表されるように古代から明治時代まで、海運による京阪、近畿地方との関わりが深く、「沿岸国」としての歴史が綴られている。


陸奥の国は古代、国内で初めて「」が産出したとされる。 
この金を都(大和)に贈呈して大和の象徴とされる大仏殿(奈良の大仏)が出来上がったとも言われる。 これがきっかけで中央政府とされる大和王朝は、陸奥の国との関係を深めていく。
しかし、この奥州という国を分散支配していたのは各地の豪族たちで、蝦夷と呼ばれた人たちであった。 蝦夷(えみし、えびす、えぞ)とは普通、蝦夷地(えぞち)のアイヌ人を指すようだが、広い意味では北方に住み、畿内の大和王国によって異族視されていた人々に対する呼称でもあった。 俗に、蝦夷とは「勇敢な田舎の人々」を意味するともいう。

蝦夷は、日本国家が成立する以前、畿内のヤマト地方を中心とする大和王国(大王、後の天皇政権)との争いが、凡そ800年の間絶えなかったともいわれる。 それは西暦の年号が始まったあたりからともいわれる。 最終的に決着を着けたのが、平安京・桓武帝による坂上田村麻呂の征夷軍であった。
しかし、その後の奥州も蝦夷(この頃は俘囚:ふしゅうといった)による反乱や平泉文化が華開くも源頼朝による藤原氏征伐、秀吉による奥州仕置、果ては明治維新の戊辰戦争など、常に中央から虐げられ、戦乱が続いた。


岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、
『  古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 縄文期の蝦夷から近代の官軍の東北侵攻まで、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか  』とも述べている

これら、東北に流れる「歴史の川」を、「温泉」に浸かりながら探ってみたい。
次回、第1回は福島、「いわき」から



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東北紀行 「東北一般」


近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実で、

蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだ。 



しかし、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降

ほんのチョット南・西にズレたにすぎないとも思われるのである。 



小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!!、と言いたいところである。



縄文期の東北は弥生文明に翻弄されてきて事実がある。 

はたまた江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 

「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、

その象徴が会津戦争だった。 



その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国・下北へ流されているのである。

テナコトを想像すると、歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。





更に、東北・北東部は面白い・・!!



平安初期、「坂上田村麻呂」が稲作キャンペーン武装集団が東北の蝦夷(エミシ)を討伐した。 

その痕跡が日本三景の「松島」(五大堂)や多賀城(現在の宮城県多賀城市)に観ることができる。 

松島は余りの美景に芭蕉が句を詠むのも忘れたとも云われるところだが・・?  



それは兎も角、中世・陸奥国は以降、安倍氏が勢力を伸ばし2世紀にわたって実効支配していたとされた。

ところが、11世紀半ばの平安後期「前九年の役」、

更に、「後三年の役」が勃発し、安倍氏は滅亡した。 



その後100年に渡る「奥州藤原家」が誕生する事になる。  

北上流域文化」ともいわれ、

地方豪族が築いた文化としては最高のものといわれる華麗な黄金文化を築いた。 

その北上川は社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。

因みに、その河口が伊達・石巻であった。 



江戸期には伊達政宗が舟運の便を開き、

上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え江戸へと向かったという。 

伊達政宗は北上川に長大な「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。





「八戸」周辺には、「戸」という行政地域が多い。 その戸(へ)とは・・? 

地図を見るまでも無く、八戸市周辺は八戸をはじめ「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。

平安末期の12世紀、さしもの栄華を誇った藤原家は「源頼朝」によって滅ぼされているのは周知である。

頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、

この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部氏に、

広大な領土(糠部・ぬかのぶ五郡)を預けている。 

糠部郡は現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、

現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。



この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。 

所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。 

頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 

当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部氏は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、

かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。 



この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる。

「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 

その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、

青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして「八戸市」がある。

そう、「南部」というのは方位の北部、南部ではなく、人の名前だったのである。


class=MsoNormal>津軽半島の北部、“うらぶれた“地域に「十三湖」が光っている。

この十三湖、つまり「十三湊」は鎌倉期の12世紀後半から凡そ3世紀に亘って隆盛を極めたという。

当時、十三湊一帯は豪族・安東氏の統治国であった。 

この安東氏は陸奥の国、安倍一族の子孫といわれ、

平安末期「前九年の戦」で安倍貞任(あべのさだとう)が源頼義(頼朝、義経の祖)に敗れ、

その子供等が北国津軽のこの地へ落ちのびたとされている。

安東氏は回船技術に優れ、日本海地域の中心都市として、

海外(明・今の中国や朝鮮、極東ウラジオ)との交易を深めて「十三湊」の繁栄を築いたといわれる。 



今は遺跡となっている十三湊であるが、

特筆すべきは室町期の頃の国内での日常の食器や生活用品等は普通、木製品が中心だったが、

この地では既に舶来品の陶磁器類を使用していたという。

当時の十三湊は、当国日本を代表する「三津七湊」の一つであるといわれた。 

三津は近畿、九州であるが、七湊は全て日本海よりで、

しかも東北、北陸地方というのが当時の文明、文化が偲ばれて面白い。





そして、歴史の中から忽然と消えた「十三湊」・・、



室町中期以降になると安東氏は、南部氏の台頭によって追われることになり、

その力は急速に衰微し、そのため北方との交易地の地位は、

野辺地湊や大浜(現在の青森市)に奪われていった。 

その後、十三湊は時代が下るにつれ自然の影響を受け、

飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していったという。 



その最大のキッカケになったのは地震による大津波による被災ともいわれる。 

この地震・津波は、興国2年(1341)の大津波といわれ、

一説によると津軽地方大半が埋没し、死者十万人を超えたともいわれる。

十三湊は今でも砂礫の中に埋まっているそうで、まるで火山の灰に埋もれた「ポンペイ」の様である。





東北地方をエリアとする盛岡出身の作家・「高橋克彦」氏は・・、



size=-1>  古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 

弥生文化に席巻された縄文文化;

中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;

豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);

官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 

その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、

勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 

こんな国が他にあるだろうか・
・  』



・・とも述べている。




 東北紀行 
(近日公開)


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