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東北紀行(39)花巻 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」

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 東北紀行(39)花巻 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」   、






宮沢賢治



『雨ニモ負ケズ』・宮沢賢治  、

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ



雨ニモマケズ

『 人間というものは、死というものが、身近なものに感じられるようになった瞬間、初めて生というものの尊さを実感として受け止められるのだなと思った。
そして賢治死後、68年経った2001年賢治がこれほど日本中の人々に愛され、新たなる国民文学とまで表されている秘密の一端が分かったような気がした。
それはあらゆる事について、彼の紡ぎ出す言葉の一語一語が、他人や世間に「こうしろ」「ああしろ」などとおこがましいことは一切言わずに、「サウイフモノニワタシハナリタイ」としてあくまで「一人称」(自分の問題)として語る賢治の心の優しさと謙虚さにあるのではないか、ということである。
このようにして、賢治個人の「諦め」は、一種の悟りの心境にまで変化を遂げ、ついには単なる諦めが「諦念」となり、日本人いや人間精神のもっとも美しい心境を描いた「雨にも負けず」の詩文として結晶したのであろう。 』

識者・佐藤氏評】   http://www.st.rim.or.jp/~success/amenimo_ye.html


見学序に、孫の土産として「風の又三郎」と「銀河鉄道の夜」の冊子を購入して記念館を退出した。

次回、「新渡戸記念館



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東北紀行(38)花巻 「宮沢賢治人物像」

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 東北紀行(38)花巻 「宮沢賢治人物像」   ,





宮沢賢治


宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日、花巻の母イチの実家で生まれている。(1896-1933)
盛岡高等農林卒業後(現岩手大学農学部)、花巻で農業指導者(花巻農業学校教師)として活躍のかたわら創作活動をして詩人・童話作家としての名を上げる。 
又、自然と農民生活で育まれた独特の感覚や宗教心に目覚め生涯、法華経を敬信したとされる。
童話「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、詩集「春と修羅」など多くの作品を残している。

転機となったのは29歳の時に「草野心平」と巡り会ったことであり、彼の積極的な紹介により宮沢賢治の名前が世に少しずつ知られるようになっていく。
1933年(昭和8年)9月21日午後1時半、花巻の宮澤家で結核のため死去、享年37歳の若さであった。


1931年に東北砕石工場技師の技師を担当するが東京で病に倒れ、帰郷して創作に専念するようになる。同年、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。 
又、鉱山会社勤務の経験や近隣を走る「岩手軽便鉄道」(現在の釜石線)に度々乗ったことで鉄道の駅舎の命名や東北地方では有名な座敷童(わらし)をモチーフした「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」の創作が実を結んだとも云う。



宮沢賢治の数ある作品の中で、『雨ニモ負ケズ』は余りにも有名な詩であり、何行かは暗唱できる方も多いことだろう。
死後発見されたとされるが、死の2年前に書かれたものという。 
「東北砕石工場」の技師となり、夢を抱いて上京したが運命は皮肉だった。 
その時期、賢治は急に発熱をして倒れ、その症状は思いの外深刻なもので、遺書を書いたほどだったという。 
何とか花巻の実家に戻った賢治だったが、床に伏せる日が延々と続いた。
そんな時、枕元に置いていた手帳に書いたものが、この「雨にも負けず」という散文であった。

一人の農民と して生きていきたいという賢治の理想とともに、行間には生に対する渇望と死の覚悟が読みとれる。

次回、賢治 「雨にもまけず



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東北紀行(37)花巻 「蛙の詩人・草野心平」

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 東北紀行(37)花巻 「蛙の詩人・草野心平」  ,



詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている。

蛙はでつかい自然の讃嘆者である
蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである
蛙は明朗性なアナルシストである

そして・・、
『 蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す、この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕は、それ故にのみ“かへる”を慈しみ、嫉妬の如き憎む・・』、とある。

かえる」は、自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性がある。 
人間は自然の枠外に出て、しかも食物連鎖の頂点に立つ。
もはや正当性はない。 
互いに殺しあうことによってのみ、その正当性を無理やり見出す。 
その幸、不幸を唱えるならば、悪夢を持たない「」のなんと幸福なこと・・!!
、と「蛙」を賛美しているのである。



草野心平は、1903年石城郡上小川(現いわき市小川)で生まれている。 
兄も詩人で、心平に大きな影響を与えたという。

旧制磐城中学(現、磐城高校、小生の大先輩)、慶応大学普通部の入・退学を繰り返し、中国に渡って嶺南大学(現、中山大学)で学ぶ。 
帰国後、詩を書きながら貧窮の中で各地を転々としながら、編集者、記者、宣伝部員から貸本屋、焼鳥屋、居酒屋の経営まで手がけるが、商売上手ではなかったようである。 

そんな中で、宮沢賢治と八木重吉(日本の詩人:明治31年、町田市相原町に生まれる、キリスト教徒、肺結核により29歳の若さで死去)を広く世に紹介し、高村光太郎との温かい友情は終生続いたという。
詩人としては、詩集「第百階級」「定本・蛙」などで評価を確立し、蛙を通して生命力への賛美と自然のエネルギーをうたう「蛙の詩人」と親しまれた。
それが縁で、隣の福島県川内村(天然記念物モリアオガエルの生息地)の名誉村民になって毎年村を訪れ、自分の蔵書を村に寄付しているという。

いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章受賞。 
昭和63年(1988年)11月12日、85歳で生涯を終えている。

次回、「宮沢賢治人物像」



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東北紀行(36)花巻 「賢治と草野心平」

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 東北紀行(36)花巻 「賢治と草野心平」  ,



宮沢賢治を世に紹介した人物として、同じ東北出身(いわき市)のもう一人の偉大な人物がいた。 しかも、小生の大先輩でもあるから是非紹介しておきたい。 
自称他称、かえるの詩人・「草野心平」氏である。


春の歌』 詩 草野 心平

かえるは、冬のあいだは土のなかにいて、春になると地上に出てきます。
そのはじめての日のうた・・、

『 ほっ まぶしいな。
ほっ うれしいな。
みずはつるつる。
かぜはそよそよ。
ケルルン クック。
ああいいにおいだ。
ケルルン クック。
ほっ いぬのふぐりがさいている。
ほっ おおきなくもがうごいてくる。
ケルルン クック。
ケルルン クック
 』


かえるのシンペイ」は・1987年の文化勲章を受章している。

1931年、東京・麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した・・、
1952年、文京区に居酒屋「火の車」を開店・・、
1957年には新宿にバー「学校」を開いている。
かえるのシンペイは、やはりかえる同様、水に縁があったようだ。

それでも貧乏神はシンペイの元を去らず、未だ面識のなかった宮沢賢治あてに「コメ1ピョウタノム」と電報を打った。 
賢治に電報を打ったのは、彼が農場を持っているのを知っていたのである。


宮沢賢治を見抜いた草野心平の凄さ・・!、

この賢治のことをシンペイは・・、

『 現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。 世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。 彼の存在は私に力を与える(中略)、私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。 (中略)今後、彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしい悦びである。 宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである 』と断言している。 

そして、若き天才・宮沢賢治の死後まもない昭和8年、「日本詩壇」に載ったシンペイが送った追悼文の末尾に、『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である』 、と書いている。   

宮沢賢治の偉大さと、又それを見抜いた草野心平の凄さがよく理解できるのである。
草野心平はただ単なる「蛙の詩人」ではなく、彼こそ原始から未来への線上で大光芒を放つ詩人であり、世界に誇る哲学的詩人である。 
宮沢賢治と並ぶ、もう一人の「東北人らしい感性豊かな人の代表」なのである。

草野心平」はただ単なる「蛙の詩人」ではない、偉大なる「蛙の詩人」なのである。

次回、更に「草野心平



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東北紀行(35)花巻 「宮沢賢治記念館」

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 東北紀行(35)花巻 「宮沢賢治記念館」   、
  



宮沢賢治記念館の入口



宮沢賢治記念館の洒落た玄関



花巻へ到った。 ICは花巻空港である。 
先ず、最初の訪問先である「宮沢賢治記念館」に向かった。
賑やかな国道4号線から283号線へ回って、10分ほどで到着した。
花巻平野の中の丘陵地の高台、緑豊かな林の中に、モダンな記念館の建物があった。

展示室には宮沢賢治ならではの広範囲、多岐にわたって展示されている。
文学者、作家としての作品の他、自然科学、農村環境、音楽芸術など、特に、文学作品としての作品や出版物、蔵書の多さにびっくりする。 詩集、童話集、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品があり、これらの大多数の作品は、死の直後から主に「草野心平」(親交のあった友人、先輩)の尽力により多数の作品が刊行されたという。
尚、展示室の外部テラスからのどかな風景が望まれて、中央に北上川の清流が一服の絵のようであった。



記念館より望める北上川と町並み


展示品は画家としての作品、東北の鉱山技師時代(石灰石工場)の掘り出した鉱石の標本、地質図、又、音楽にも才能があったらしく愛用した「チェロとバイオリン」、農学校(花巻農学校)で経験した農事に関するもの、宗教(法華経)に関するもの等、多岐多彩にわたっている。




賢治が音楽に興味を持ったとされる「バイオリン


宮沢賢治の作品、記念品を展示する記念館の主唱者も、「宮沢賢治の深慮、思想と、詩や童話、教育や農業の事など、彼への理解は計り知れなく容易ではない」としている。
又、草野心平のいう賢治に関して『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である。 』と評している。 

次回、宮沢賢治を世におくった、小生の大先輩でもある「草野心平」の紹介。



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東北紀行(34)岩手 「南部氏と盛岡藩」

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 東北紀行(34)岩手 「南部氏と盛岡藩」  ,





本丸・二の丸間の空堀に架かる赤橋


二の丸に築かれた草生す高石垣



時は下って戦国期、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。 
更に、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。 
石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。


戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。 
浅野長吉(ながよし:後の長政)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。 
子に浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。



JR盛岡駅は、珍しく北上川と西側山地より流れ来る雫石川の合流点に設えてある。 
もし、ここにお城を築いておれば地勢的にの軍事上理想的のようにも思えるところである。  
実際の盛岡城は、駅前正面の不来方橋を渡った先、凡そ1km足らずのところにあり、無論、今は城郭は無く周囲を石垣や石の柵で囲ってある城址のみで、城内は岩手公園、愛称「盛岡城跡公園」として整備されている。

「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代(初代盛岡藩主)南部信直は、盛岡城をはじめ、城を中心とした城下町の建設を始め、概ね、現在の盛岡の街並みが出来上がっている。
盛岡城は会津若松の鶴ヶ城、白河の小峰城と並び東北三名城と呼ばれていたようで、特に城壁周辺は土塁や高い石垣が多用され、其の美しさは東北の城の中では異例ともいえたらしく、城郭がなくなった今でも城垣などの威容を感じることができる。

現在の盛岡城は本丸、二の丸を中心に石垣や水堀の一部など保存状態も良く国指定史跡に指定されていて、又、日本100名城に選定されている。
当時は盛岡のことを不来方(こずかた)と言っていたらしく、お城の名前も不来方城と呼んでいたが、2代目・南部利直が名称を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込めて「不来方」から「盛岡」に改めたといわれる。 従って、正しい呼称は南部氏の領する南部藩の盛岡城ということになる。


江戸も末期の1817年には、従来の南部藩の名称を藩主の居住する土地の名を取って盛岡藩と改められ、この時期になって盛岡藩の盛岡城ということになる。
幕末から明治維新に到って藩籍奉還が許されると、南部家は南部利恭が跡目を相続し盛岡藩知事に任命されている。 
鎌倉期、南部光行が甲斐の領国から陸奥国に到って、其の後、南部利恭を迎えるまで実に800年の歳月、南部家41代を数えることになる。


岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、
『  古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか  』とも述べている。

彼の著書に『炎立つ』という作品がある。
平安時代前期の朝廷と東北地方の関わりから、物語は平安末期から鎌倉時代の初期の頃の奥州を舞台にした戦乱模様を描いている。 前九年の役、後三年の役の奥州藤原氏の開祖とも言える藤原経清の生涯から、初代・藤原清衡が奥州の覇者となり、更に第三代・藤原秀衡と第四代・藤原泰衡の時代における藤原氏の栄華の時代から源氏台頭による頼朝、義経ら奥州藤原氏滅亡へと到る過程を詳細に物語っている。
尚、この作品は1993年から1994年にかけて放送されたNHK大河ドラマにもなっている。

次回、 花巻 「宮沢賢治記念館



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 東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」  .






三戸城の大手門・「綱御門」(復元)
三戸城の実際の築城は戦国期の永禄年間とされるが、それ以前の800年前に南部光行が防衛上の拠点(城柵)としたとも云われている。



地図を見るまでも無く、八戸に代表される「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く

平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 
糠部郡は、現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。


この地方は藤原時代から大いにを育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。

この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。
だが、四戸がない。 このことは四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないかという説が有力だといわれる・・?。



甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。
因みに、南部三郎光行公は、「石橋山の戦い」で源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部町)を与えられる。この時、その地名にならい、「南部姓」を称したといわれる。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。



序ながら、青森には南部地方と津軽地方とがある。 
南部地方とは、青森県東南部を指す地域で、一般に、青森県東南部の八戸市を中心とした十和田市、三沢市、三戸郡、上北郡の市・郡を指す。 
南部の由来は無論、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった「南部氏」から来ている。 別名この地方を県南地方とも呼ばれるが、近年では南部は地域名として捉える節もあるようだ。 
又、津軽は現在の弘前、青森を中心とした青森県西部を指して言う地域呼称である。

津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。
つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。


この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」と。 

江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。

最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。
現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。

次回、南部氏と盛岡藩  、



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東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」

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 東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」  .






三戸城の大手門・「綱御門」(復元)
三戸城の実際の築城は戦国期の永禄年間とされるが、それ以前の800年前に南部光行が防衛上の拠点(城柵)としたとも云われている。



地図を見るまでも無く、八戸に代表される「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く

平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 
糠部郡は、現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。


この地方は藤原時代から大いにを育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。

この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。
だが、四戸がない。 このことは四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないかという説が有力だといわれる・・?。



甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。
因みに、南部三郎光行公は、「石橋山の戦い」で源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部町)を与えられる。この時、その地名にならい、「南部姓」を称したといわれる。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。



序ながら、青森には南部地方と津軽地方とがある。 
南部地方とは、青森県東南部を指す地域で、一般に、青森県東南部の八戸市を中心とした十和田市、三沢市、三戸郡、上北郡の市・郡を指す。 
南部の由来は無論、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった「南部氏」から来ている。 別名この地方を県南地方とも呼ばれるが、近年では南部は地域名として捉える節もあるようだ。 
又、津軽は現在の弘前、青森を中心とした青森県西部を指して言う地域呼称である。

津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。
つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。


この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」と。 

江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。

最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。
現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。

次回、南部氏と盛岡藩  、



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東北紀行(32)岩手 「前九年・後三年の役と藤原四代」

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 東北紀行(32)岩手 「前九年・後三年の役と藤原四代」  ,



平安後期の1051年が「前九年の役」で、1083年が「後三年の役」とされる。
東北地方の北上川流域で勢力をふるっていた豪族、安倍氏が1051年に反乱を起こすと、朝廷から軍が派遣されるが、ことごとく敗れてしまう。 
朝廷は更に源頼義とその子・義家を派遣して討伐へ向かう。

この時、江刺の豊田館に住んでいた藤原経清が、安部氏と姻戚関係もあり共に戦うことになる。 
安倍、藤原氏は頑強に抵抗するが、出羽の豪族・清原氏が源頼義方を応援したため、遂に「厨川」(盛岡市の北)にて鎮圧、大敗を喫し、安倍貞任、藤原経清共に敗死する。
  

藤原 経清は陸奥国亘理に縄張りをもつ豪族である。 
平将門の乱の平定に活躍した藤原秀郷の直流とされ、溯れば中央(奈良・大和の朝廷)における藤原四家の一つ藤原北家の後裔とされる。

経清亡き後、内室は嫡男を連れて宿敵であった出羽清原家に嫁ぐことになるが、この嫡子こそ後の藤原清衡で奥州藤原四代の初代となる。
安部氏滅亡後、暫くは出羽清原家が中央から認められていて、ほぼ東北全体の実質的支配者であった。これをまでを前九年の役という。



この後1083年頃、安倍氏の後を受けて東北地方をおさめていた清原氏は、今度は一族の間で争いを起こす。 
最終的に前九年の役で活躍したが源義家が、金沢柵(秋田県横手市)で清原氏一族の藤原清衡をたすけて争いを終結させる。 これを「後三年の役」という。

この両戦に都から出陣したの源頼義、源義家によって源氏の名を世に知らしめることになり、そして義家から五代目に源頼朝、義経、更には木曾義仲を世に出させることになる。 だが、現時点では中央では平家が台頭しはじめ、朝廷の実権は藤原氏が握っていた。 



さて、藤原清衡は、母が清原氏に嫁いでいるため、本来は清原清衡である。 
だが、元服の後か、或は平泉に居館を設けてからかは本来の父の姓である「藤原清衡」と名乗った。
清衡は、1088年から築かれたご存知奥州藤原四代の祖であり、まさに100年間の基礎を築いた力量ある人物であった。 
平泉では自らが墓稜となる「金色堂」を造営している。

偉大なる初代清衡の後を継いだのは基衡であった、
基衡」は内紛を起こすなど気荒なところもあったが、平泉に毛越寺を創建したり、都市平泉を整備したりして二代目らしい足跡を残している。

三代目はご存知「秀衡」である。 
平氏の清盛や宗盛も頼ったとされ、源氏の頼朝は恐れをなしていたというほどの名君であった。 
この頃、源義経(16歳)が平泉に下り、秀衡の庇護されるようになる。 
その6年後(1180年)義経の兄・源頼朝が伊豆で挙兵、富士川の合戦では平氏を破っている。併せるように義経が秀衡の武将として平泉より出陣している。 
その後、義経は壇ノ浦で平家を滅亡させるなど華々しい活躍をするが何故か兄・頼朝に嫌われ、結局、秀衡の元へ下る。

四代目「泰衡」に至るが、鎌倉の頼朝に対しては始終弱腰であった。 
そして遂に頼朝に屈し、泰衡は従兵数百騎で義経の起居していた「衣川館」を襲撃し、義経を自害へと追いやった。
泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の和平を図ったが鎌倉側は承知せず、頼朝自ら出陣し、大軍を持って奥州追討に向かった。


1189年には平泉は炎上し、泰衡は比内郡において老臣・河田次郎に殺され、奥州・平泉藤原氏は滅びた。
源頼朝は、奥州藤原氏の討伐で戦功を挙げた甲斐の「南部光行」に、甲斐国南部牧(南部町)から陸奥国糠部郡などを与える。 
光行は奥州の領地に三戸城(青森県三戸郡三戸町)を築城した。

次回、「南部氏と“戸“」



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東北紀行(31)岩手 「奥州の不穏」

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坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定し、朝廷の下、兵役や貢税などの取り決めをしてから凡そ100年の間、陸奥国、奥州の地には多少の小競り合いはあったものの動乱、大乱などは無かったようである。
しかし、平安後期になってくると、俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷)の長は地域同士の小競り合いの中、各地で柵を巡らし、戦闘を整え、中央政府に逆らって私腹を肥やし、果ては貢税などの滞納、拒否を行うようになる。

これら俘囚の長に代表されるのが、奥六郡(現在の奥州市から盛岡市にかけて)を支配する安倍氏(安倍貞任)や出羽・仙北地方の棟梁・清原氏(清原真衡)であった。 
特に、安倍氏は広大な地域に影響力を発揮していた。 そして権力、兵力が増大するに従い、陸奥国の奥六郡(北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
更に、安倍氏は朝廷への取り決めを破り、貢租(租税)などの納付を怠る状態になった。 阿倍氏のこれらの施策は、朝廷に対する謀反であり、反逆とみされた。
これにより「前九年の役、後三年の役」が勃発することになる。


平安後期の東北北部は、再び戦乱の時代を到来することになるが、先ず、その当事者は安倍氏に対して途中からであるが清原氏が登場する。 そして、戦役の結果として清原氏が安倍氏を滅ぼすことになる。

安部氏は奥六郡を支配する俘囚の長であり、その出実については奥州に下った中央豪族である安倍氏が任地で子孫を残したとの説、又、飛鳥時代の7世紀中頃、日本海側を北に航海して蝦夷を服属させたた阿倍比羅夫(あべのひらふ)につながる系図だとも言われ、それに、元々、東北に根ざした住人であるといった説があるが定かではないらしい。 何にしてもこの戦役中、中心となるのは安倍貞任(あべさだとう)という人物である。

一方、清原氏はやはり俘囚の長を自称している。
清原氏は、東北地方で栄えた豪族で、仙北三郡を支配した出羽清原氏である。(現在の秋田県と山形北部地域)
清原氏は天武天皇の血筋といわれ、その皇子である「日本書紀」を表した舎人親王の系統とされている。
又、同系に「枕の草子」を書いた清少納言がいるというが、これも定説でない。
因みに、俘囚とは血筋とは関係なしに、東北地方に元々住んで居た人、或は移住させられた人、土着した人全てを俘囚と呼ばれている。 その中から大和朝廷の権力によって選出された有力者を俘囚の長と呼んだ。

奥州不穏の中、朝廷は河内源氏の「源頼義」を陸奥守として、事態の収拾を図るため陸奥に赴任することになる。


次回、「前九年・後三年の役」



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東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」

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 東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」  ,






手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の赤○印が清水寺(Asahi・comより)



【追記】  

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から特定されたという。

京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されていて、内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏(藤原氏の本流)の根拠地である点から関連した高貴な一族の誰かと推定されていた。

清水寺縁起」には田村麻呂の墓地に関する記載があり、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。 
その後の研究によって西野山古墓は田村麻呂自身の墓であることが特定されたという。
尚、清水寺の創建は平安初期に「延鎮上人」(奈良から平安前期の法相宗の高僧)により開祖 坂上田村麻呂の堂宇建立により創建されている。 
清水寺のある音羽山は、元々は延鎮上人の観音修行の地であった。 そこへ田村麻呂が山荘を建造したが、田村麻呂の夫人の発願によって堂宇として寄進し、延鎮上人によって開山したものとされている。(北観音寺⇒清水寺


田村麻呂は平安初期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷の勢力が強かった事が伺えるのである。
同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。

西野山古墓
は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。

この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。
遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。

次回、岩手 「奥州の不穏」



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東北紀行(29)岩手 「坂上田村麻呂」

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 東北紀行(29)岩手 「坂上田村麻呂」  ,


中国風の政治を目指した桓武天皇は平安京を造営する。 
その平安京の鬼門の方向に異国の野蛮な民・「蝦夷」が存在することは耐え難かった。 即位後、早速、蝦夷の制圧を政策にかかげた。 
ところが、蝦夷にアテルイという英雄があらわれた。

アテルイは蝦夷の族長たちをまとめ、北上川(岩手県)の支流、衣川での戦いで、わずか1500人ほどの軍勢ながら、桓武天皇の派遣軍を打ち破る。
その3年後、今度は坂上田村麻呂が副将を務める10万人以上もの第2次蝦夷制圧軍がやってきた。 ところがアテルイ達はこれをもはね返して、北上川から北の独立を守った。

坂上田村麻呂は新たな征夷大将軍の位を与えられ、801年からの第3次蝦夷制圧を指揮することになった。 
田村麻呂は、兵力で押しても蝦夷はぜったい平定されないと考え、そこで蝦夷の文化と自立性を認め、蝦夷の族長に対する懐柔工作を展開する。
これによってアテルイの連合組織は分断され、弱体化してしまい、アテルイは盟友のモレとともに田村麻呂に降服することになる。


この戦いの締めくくりとして、坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を造営し、150年にわたる陸奥北半の経営拠点とした。 
これによって胆沢地方をはじめとするこの地方は中央集権下に組み入れられ、律令体制の下に統治されることになる。 以降、胆沢郡が新たに設置され江刺郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡と合わせて「奥六郡」と称された。
田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生むことになる。 
即ち、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。


一方、陸奥按察使である坂上田村麻呂にはもう一つの使命があった。
奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。
ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。
当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 これらは主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであった。

坂上田村麻呂将軍は、武装した「稲作キャンペーン集団」ともいうべき任務をも兼ねて、弥生の文化を広めることにも重点をおいた。
彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。 

また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては珍しく、いつのまにか蝦夷の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。
因みに、坂上田村麻呂が大軍を派遣した際の拠点を一旦、陸奥国多賀城(宮城県多賀城市)に置いている。 
田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」のお堂を設えたという。 これが今の松島・五大堂である。


田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。
中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主;後漢・高祖の末裔で、3世紀頃一族を率いて日本列島に渡来した)を祖とすると伝わる。 
坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。
田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。
征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 

この役職は田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。
頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の王政復古の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。

次回、田村麻呂の墓地


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東北紀行(28)岩手 「大伴家持」

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 東北紀行(28)岩手 「大伴家持」  ,





涌谷町の黄金山神社境内に立つ大伴家持の「万葉歌碑」




『 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 
            陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
 』
 
(東国の陸奥の山に黄金の花が咲いたおかげで、天皇の御代は益々栄えるだろう)


日本で始めて金を産出したのは宮城県涌谷町の黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。 
これが現在の国指定史跡の「黄金山神社」と「黄金山産金史跡」である。 
現在も、神社の側(そば)を流れる小川からは砂金を採取できるという。

この時の延暦元年(782年)、越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は、陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)として陸奥国府多賀城へと赴任している。(当時の陸奥守:国司は百済王・敬福)

陸奥按察使は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職で、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した地方官のことである。
家持は延暦4年(785年)、陸奥按察使持節・征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没している。



黄金が産出した頃、八世紀の宮城県北地域、特に国府・多賀城より北の地域は、政府の北東辺域にあたり蝦夷(えみし)の地との境となっていた。
政府は国家の範囲を北へと広げる政策をすすめながら、関東地方などから多くの人々を移民させ、要所には官衙(かんが;役所)や守りの城柵などを置いて、地域の整備や「蝦夷(えみし)」と呼ばれた原地人の人々の教化(支配下政策)にあたっていた。

こうして、律令政府のすすめた北進政策と産金地の拡大が深く重なりあい、後に「黄金の国ジパング」としてしられる奥州平泉の黄金文化の誕生につながってゆくのであるが、この時、朝廷(中央政府)による北進同化政策を、押し止めようとしたのが蝦夷の一族であった。

蝦夷(えみし)というのは農耕が導入される以前の日本人という説もあり、先住民族であるアイヌであるともいわれる。 
飛鳥時代(七世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。
元より、東北の地は豊穣な大地に恵まれた聖域で、日本で初めて金が産出された土地でもあり、自然への畏敬と人と人との絆を大切にした暮らしを送っていた。 その生活は、毛皮や馬・鉄・金などの特産物の交易によって営まれていたといえる。

大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又和人の築いた柵を越えて襲撃を行っている。 
飛鳥期の658年には阿倍比羅夫が水軍を率いて蝦夷を討ったという記録もある。

780年頃、蝦夷の最大の戦いは胆沢とその周辺で行われ、陸奥国の国衙である多賀城を一時陥落させている。 
この時の指導者がアテルイという名が伝わっている。  

平安初期、桓武天皇が京都へ都を移してからは、朝廷側が大軍をしきいて遠征し、この時の征夷大将軍が「坂上田村麻呂」であった。

次回、征夷大将軍・「坂上田村麻呂」



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東北紀行(27)岩手 「東北で国内初の金産出・・!!」

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明治維新で東北諸藩の多くは賊軍とされ、この時、長州の誰かが「白河以北は一山百文」(東北の価値)とあざけりを受けたことがある。 
尤も、盛岡出身の原 敬(はら たかし)はこの話を聞いて、号を「一山」(のちに逸山)に定めたという反骨精神の持ち主であった。
原 敬は、南部(盛岡)藩の名家の出身だが、分家して士族から平民となったため、「平民宰相」と呼ばれ人気が高かった。

しかし、奥羽地方は「一山百文」どころか、とんでもなく光り輝いた時代があった。それは金の文化といわれる平泉に栄華が開かれる遥か以前のことであった。



海ゆかば」   作詞 大伴家持

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ




この歌はご存知『海ゆかば』であるが、日本海軍の歌ではない。
ただ、1937年(昭和12年)に国民の戦闘意欲、高揚を意図して制定された曲というのは事実であった。
それ以前に明治天皇が、この文言は天皇を崇敬する気持ちの現れであるとして、「軍神を紫宸殿に祭る祭文」の中にも引用されたという。


原文は「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」 大伴家持
(陸奥国からの金が産出し、天皇の御代をたたえる御祝歌)

現代語訳
『 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(当時の聖武天皇)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり  (以下略)   我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 『 海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない 』と誓って  (以下略)  朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい 』


歌の中で家持は、産金地を「陸奥の小田なる山」、「みちのく山」と詠んでおり、万葉集に登場する地名の中では最北・最東の歌となっているという。
実際の当時の金の産地は古代から中世にかけては陸奥国小田郡で、現在の宮城県遠田郡湧谷町にあたる。 この地域には金産地らしく黄金山神社や黄金、金山といった地名や痕跡が今も残る。 


奈良期の天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺盧舎那仏像(大仏殿)の建立の詔を出している。
都(奈良)では東大寺の造営工事が進行中であったが、大仏に塗金するための金の不足が問題となっていた。 
そして、陸奥国小田郡から金が産出したという知らせを聞いて天皇は大変に喜び、東大寺大仏に詣でてこのことを報告し、和暦年号も西暦749年の天平時代から天平感宝(てんぴょうかんぽう;この後、764年まで天平〇宝という年号が続く)時代と改めるなど、国家的な慶事として大々的に祝われたという。

因みに、陸奥国から産出した金を大仏殿の建立に当てたのは黄金900両(約13㎏)とされ、大仏造立に要した金の量は、全部で10436両(約146㎏)と記録されている。
産金より1250年を経た現在も、わずかながら大仏には鍍金の痕跡が残されているという。

次回、国司歌人 「大伴家持



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東北紀行(26)岩手 「北上川(2)」

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 東北紀行(26)岩手 「北上川(2)」  ,




盛岡市中心街を流れる「北上川」と岩手山



その後の奥州藤原氏による平泉文化と呼ばれる中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される東北独特の文化圏を形成した。このことは北上川の豊かな流れを利用した川舟の流通無しには考えられない。
北上川の舟運は、当時の経済及び軍事や政治においてまさに生命線ともいえるもので、舟運路の確保は各豪族たちの関心事であった。


時代は下って江戸時代になると、河口にあたる石巻港は北上川水運によって岩手南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。

伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 
これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。


この頃、伊達政宗は北上川に「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。
旧北上川河口から阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約46kmに及ぶ日本最長の運河が延びている。 
江戸慶長年間から明治期にかけて建設されたもので、因みに「貞山」とは伊達政宗の謚号(しごう、おくりなで生前の行いを尊び死後に贈られる称号)である。
仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、近年になって津山町付近で洪水防止のため新たに開削された新北上川(追波湾:おっぱわんに注ぐ)と旧北上川(石巻湾)とに分かれる。 


北上川は、それらの戦役を含めた社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていて、別称・北上川流域文化圏とも呼ばれている。
宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」なのである。 

北上川周辺には国指定史跡、名勝、天然記念物などの多くが分布していて、それは苦難の歴史を秘めていることでもあるが、今は只、ゆったりと流れている。

次回、岩手 「東北で国内初の金産出



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東北紀行(25)岩手 「北上川」

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岩手県に入ると早速、一関である

一関は如何にも関所に関したような名前のつけ方である。
平安後期まで俘囚(ふしゅう:朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷:えみし)の長として奥六郡を支配した安倍氏が一の関、二の関、三の関と砦を築いた事によるという説や平安末期に奥州一帯を支配した奥州藤原氏が、平泉の南側を守るために置いた関所に由来しているという説がありようだ。 
いずれにしても、この地は古くから「」であったといわれる。


この関の北側である一関から北へは東北道自動車、国道4号線、東北新幹線、東北本線と名だたる主要幹線が南北に縦貫している。 
しかし、これは近代、現代に到ってからのことで、この地域の最大にして特徴的なのが真っ芯に「北上川」が動脈のように流れているのである。
それ以前の交通、通商の手段としては奥州街道もそうであったが、何といっても北上川である。

北上川は、岩手県、宮城県を流れる本流水系で、延長距離が249kmと比較的短いが、流域面積は東北最大であり全国でも4番目に入る。 
また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことも特徴となっていて、其の流域の大半は岩手県の中央部を貫通している。
その流域には、一関、平泉、衣川、前沢、水沢、胆沢(いさわ)、江刺、金ヶ崎、北上、花巻、盛岡そして厨川といった奥羽地方の名だたる名称が、既に大和朝廷の時代から知られる地域名が多く並んでいる。 

そして、北上川は盛岡市内の中央部を貫流し、更に北上して岩手県北部・岩手町に到り、御堂観音(いわて銀河鉄道・旧東北本線「御堂駅」)の右裏手にある清冷な泉の湧く処、この地が古くから北上川の源泉だと伝えられている。
11世紀半ばの前九年の役で源頼義、義家父子が、この地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと、清水がこんこんとわき出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したといわれている。 この泉を「弓弭の泉」と称している。


最も古い北上川の利用記録は、平安時代に東北の蝦夷(えみし)を討伐した武将として知られる坂上田村麻呂によるもので、北上川の支川である雫石川のほとりに、彼が造営したとされる志波城址がいまも当時の面影を残している。

古代奈良期の頃までは、この辺りは未だ東国・蝦夷(えみし)といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう。
大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 
そして最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂よって、一応の決着をつけられるのだが。

又、古代末期の東北の現地豪族して知られる安倍氏による城柵は、北上川の河畔に数多く建立されていて、川崎村の北上川と砂鉄川の合流部付近には船着場のような石積みの跡が確認できるという。
東北の蝦夷(えみし)たちは一般に俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれるようになり、その維持政策管理を任されていたのが安倍氏であった。 
だが彼は朝廷に対して反乱を起こすことになる。 
これが「前九年の役」、「後三年の役」という戦役であった。 
この戦をを経ながら、北上川流域に藤原全盛期を迎えることになる。


次回、引続き「北上川



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東北紀行(24)仙台 「仙台城(青葉城)」

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 東北紀行(24)仙台 「仙台城(青葉城)」  ,






青葉城址の伊達政宗公が仙台市内を見下ろす



仙台城は、約270年に亘り伊達氏代々の居城であった
主城・「仙台城」は伊達政宗によって江戸開府直前の1601年に築城が始まり、併せて城下町・仙台の建設をはじめ、居城も完成と同時に岩出山から仙台城へ移している。 

政宗は、「大坂の役」(大阪夏の陣)での重臣・片倉重長が後藤基次(後藤又兵衛)らを討ち取り、又、真田幸村の攻勢を受けて立つなど大きな功があったとして開府後、家康より60万石を安堵されている。

正宗は幕藩体制時代になって世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、「貞山堀」と呼ばれる運河を整備し、北上川水系の流域を整理、開拓し、現代まで続く穀倉地帯を造り上げている。 
この結果、仙台藩は石高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したという。 一説には江戸中期には300万石を超えていたとも言われる。
文化的にも上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡神社(社殿は国宝)や松島の瑞巌寺などの建造物を残している。


仙台城」は、現在の仙台市の青葉山にある山城で、慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に亘り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でもあった。 
幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、幕末、奥羽越列藩同盟など戊辰戦争を経るも、一度も戦火にまみえることなく要塞としての機能を終えた。
その後城郭は、明治初期から大正にかけて本丸破却、大火により二の丸焼失、又、昭和期の戦災によってその大半が失われたという。

「仙台城」の本丸は、海抜115~140mの丘陵台地に立地し、東西約240m、南北260mの広さがあって、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山と呼ばれる深い原生林に囲まれ、南側を竜の口峡谷が囲むという天険の要害となっていた。

青葉山に位置する事から「青葉城」という雅称を持ち、一般的に青葉城と呼ばれる事が多い。 
青葉山は、仙台七崎(藩政期から呼ばれている仙台市内にある七つの崎が付く地名)の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。
正宗は、仙台城は山城で、江戸期における平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていたともいう。


「仙台城」、「仙台」の名前の由来は・・?
仙台城は、かって国分氏の居城があったところで、其の名を「千代城」と名付けていた。
陸奥国の国分氏は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族であり、戦国時代末に伊達氏に臣従したが、伊達政宗の不興を買って滅んでいる。
1601年、伊達政宗 が今井宗薫(秀吉の御伽衆として仕え、秀吉没後は徳川家康と接近し、家康の子・松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫:いろは姫の婚約成立に尽力している。)にあてた書状の中に、『去る十四日此地仙台へ相移り申候』と記されていることから、 伊達政宗が「千代」から「仙台」に命名されたといわれる。

次回、岩手 「北上川


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東北紀行(23)仙台 「始祖・伊達政宗」

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 東北紀行(23)仙台 「始祖・伊達政宗」  ,


福島から宮城にかけては褶曲した山間地を走る。
村田からは山形道が通じているが、その庄内山形や「蔵王」の事については帰路立寄ることになっているので、記述はその時にいたします。

さて、仙台はさすがに東北一の街で、高層ビルもチラホラ見えている。
杜の都・仙台市は慶長5年(1600年)伊達政宗が開いたというのは衆知のことで、仙台といえば伊達藩、伊達藩と言えば「伊達政宗」であろう。

東北の覇者、「伊達者」(だてもの)といわれた正宗は、御存じ「戦国の雄」として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」ともいわれる。 
伊達者(だてもの)」とは、朝鮮出兵時に政宗が揃えた戦装束が余りに派手で華美なものであり、上洛の道中において巷間(ちまた)の噂となったことから呼ばれるようになったといわれる。 これ以来、派手な装いを好み、着こなす人を指してと伊達者と呼ぶようになったと伝えられる。

だが、正宗の本音は派手好みの秀吉の気に入るよう、危ない橋を渡らないようにと十分な気配り、計算をしたものでもあった。 
この「伊達者」から、人目につくように形を表す意味;侠気を示す意;派手に振舞うの意になり「伊達な若い衆」、「伊達や粋狂じゃない」などと言われ、又、見えを張ること;外見を飾ることで「伊達めがね」などと言われるようになった。



伊達政宗は1567年に「米沢城」で生まれている。 
1567年といえば室町末期に当り、世は戦国期の動乱に入ろうとしていた時期である。
因みに、同時期の織田信長(34歳)は美濃・斉藤家の稲葉山城を陥し、「天下布武」を発して京に上った時期であり、秀吉(31歳)は信長傘下で墨俣城を築城し、美濃攻めで稲葉山城を攻略、美濃の竹中半兵衛を軍師に迎える。 
又、家康(26歳)は、今川義元亡き後、武田信玄と協定して今川氏の領国を割譲し、遠江(とうとうみ)を得ている。

豊臣政権下の政宗25歳の時、米沢の約150万石から73万石に減封となり、岩出山城に入る。 米沢城はその後、米沢藩の主城となり上杉家の名相・上杉景勝、上杉鷹山(ようざん・治憲、日向国高鍋藩出身)などの居城として有名である。 


伊達政宗は豊臣政権時代から隙あらば天下を収奪しようと何度も策略していたとされ、中央から常に警戒されてもいたという。 
彼は『あと20年早く生まれていれば、天下が取れたのに』と悔しがっていたともいわれる。
徳川期の正宗は、後の三代将軍・徳川家光からは尊敬されていたらしい。 
家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともあり、将軍就任の際に、正宗は率先して頭を下げ諸侯を抑えたともいわれる。 
病床に着いた際も将軍・家光自らが見舞ったり、医者の手配をするなど配慮を見せている。 
将軍の前での脇差帯刀も許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったともいわれる。
伊達者・伊達政宗は、1636年(寛永13年)5月江戸で永眠した、享年70歳であった。 

独眼流正宗は、「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられているという。

辞世の句は・・、

  『 曇りなき 心の月を 先だてて 
               浮世の闇を 照してぞ行く
 』



次回、仙台・「青葉城



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東北紀行(22)福島 「佐藤氏と継信・忠信兄弟」

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 東北紀行(22)福島 「佐藤氏と継信・忠信兄弟」  ,



翌朝、時間が制約される中、朝食後急いで支度にかかり出発する。
岳温泉から東北道の二本松ICまで、概ね、20分で到着した。

時間的制約というのは、高速道路でETCを利用する場合の割引制度があり、その中の1つに「通勤割引制度」がある。 その制度とは、入口料金所または出口料金所を午前6時~午前9時までの間、または午後5時~午後8時までの間に通過すれば100Kmまでしゃ50%の割引として料金計算されるのである。 
尚、余計かもしれないがETCカードを別々に2種類持ち合わせる場合は、倍の200kmまで利用できるのである。

これから東北道・二本松ICから花巻まで向かう予定だが、因みに、二本松⇔花巻は通常では(245.3km、2時間半、料金5500円)、ETCを利用すると二本松⇔仙台宮城(96km 、2,650円、通割1,350円)、仙台宮城⇔平泉前沢(99.4km2,750円、通割1400)平泉前沢⇔花巻南(49.5km 1450円、平割1000円)で、3350円で走れることになる。
二本松ICへは、当初思っていた通り、7時45分にゲート・インすることができた。



佐藤氏と継信・忠信兄弟  、

先ず、福島市街地に到る。
中世の頃、福島、及び福島県の中央部である信夫、伊達、白河地方を支配していたのは奥州平泉の覇者・藤原氏で、其の三代目・秀衡の下で管理を任されていたのが豪族・佐藤基治(佐藤庄司ともいう)という人物であった。
基治は、その秀衡の私有地の、荘園管理の職名を庄司(荘司;荘園の領主の命を受けてその荘園を管理していた職名、郡司で荘司を兼ねるものを大荘司という)と称したので「佐藤庄司」とも呼ばれ、湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていた。


源氏の御曹司・「源義経」は平清盛に捕えられ仏門修行で鞍馬山に入っていたが、その後、密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。
同様に平治の乱の後、伊豆の地に蟄居幽閉(実は全く自由であった)されていた源頼朝であるが、源平物語の段でいよいよ平家衰退が見え始めた頃頼朝が挙兵する。
併せるように義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつける。
この時、福島(出身は奥州信夫郡:現在の福島市飯坂町)からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。

継信と忠信は義経四天王といわれる勇猛な兄弟で、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。 
兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。
一方、弟の忠信は頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。 その後、六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。

無事奥州に下った義経一行は平泉に向かう途中、福島の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。
福島市飯坂町にある寺院・医王寺は、信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺で、境内には、平安時代末期の武士で奥州藤原氏の姻族・佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓が残されている。

後年、松尾芭蕉が奥の細道の旅の際に訪れ、

「 笈も太刀も 五月に飾れり 紙のぼり 」
(弁慶の笈:おい、も義経の太刀も、5月の端午の節句に紙幟と一緒に飾って祝ってもらいたい)

という句を詠んでいる。

松尾芭蕉が医王寺宝物として所蔵していた弁慶の笈や義経の太刀を見て詠んだ句で、句中に登場する「」は武蔵坊弁慶が寄進した物という言い伝えがある。
尚、奥州藤原氏については後ほど詳しく、

次回、仙台の始祖・「伊達政宗



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東北紀行(21)二本松 「岳温泉」

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 東北紀行(21)二本松 「岳温泉」  ,





岳温泉街と安達太良連山



温泉街の中央ストリート



岳温泉の源泉は、安達太良山直下にある「くろがね小屋」近辺の広い斜面にあり、その間、温泉街へは8kmも離れていて、引湯管を用いてお湯を供給しているという。 
その間、お湯が揉まれ、肌に優しくまろやかな温泉になるという。


古代において、天空に火柱を噴上げる安達太良山は人々の恐れとともに信仰崇拝の対象そのものであった。 更に、熱い水を湧き出す泉もまた「神の泉」として脅威の対象で、人々は祠を作り神と神の泉を祭るようになった。

その神の泉を1200年ほど前、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東征の際に発見し開いたとされる伝承がある。
9世紀頃(863年)の古文書にも記載があり、それによると「小結温泉に従五位を授ける」、またその後の記録にも「小結温泉に正五位下を授ける」とあり、この温泉こそが「岳温泉」を指しており、千数百年前の平安時代、既に京の都においてもその存在が知られていた。

桓武天皇の命で坂上田村麻呂が京を出立し、奥州へ遠征して平定するのが平安初期であり、岳温泉の名が平安期の文献に見られることは、田村麻呂が京において紹介したのではないかと勘ぐってもおかしくは無いようである。


水戸藩主や隠居中の水戸黄門も訪れたと伝えられるように、温泉街の一角には藩公御殿
も在ったらしく、江戸期の「諸国温泉効能鑑」の全国温泉番付によれば「陸奥の岳温泉」の名で東北地方第1位にあたるとされていた。

江戸期から明治にかけては土砂崩れや火災に遭遇し、特に戊辰戦争の際には官軍の拠点になることを恐れた二本松藩によって温泉街は焼き払われたという。
そしてその都度、名称は湯日、十文字、深堀、そして「」と変わり、場所を移し姿を変えてきた苦渋の足跡もあったようである。 

その後、現在地に温泉街が再建されている。 
昭和30年8月24日、国民保養温泉地に指定された。

次回、福島 「佐藤氏と兄弟



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東北紀行(20)二本松 「陽日の郷・あづま館」

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 東北紀行(20)二本松 「陽日の郷・あづま館」  , 






男子用内風呂大浴場「俳句の湯」



男子用露天風呂「月見風呂」



女性用露天風呂「花見風呂」



安達太良の紅葉を満喫して山を降りた。 
そして、岳温泉の「陽日の郷・あづま館」の立派な玄関をくぐった。
早速、名物の温泉に浸かる。

温泉浴槽は、源泉かけ流しの男女別の大浴場「俳句の湯」、あづま館自慢の総檜づくりの露天風呂の男子「月見風呂」、女子「花見風呂」がある。 
更に、貸切露天風呂「湯小屋」という露天風呂2箇所あり、家族や夫婦、カップルには気兼ねなく利用できる。但し、有料で、凡そ1時間につき2100円だとか・・!?。




貸切露天風呂「湯小屋」


大浴場の「俳句の湯」には、『 山の湯や わが春愁の 花昏れず 』などの句碑や俳句レリーフがあり、お湯に浸かりながら俳句の気分をゆっくり味わうのも良い。

温泉は引き湯源泉掛け流しで、緑色がかった無色透明だが湯元の気象変化で乳白色にもなるという。






「東三番館」の湯 


又、隣りの姉妹館、「東三番館」のお風呂も利用できる。 
本館と三階(・・?)で連絡通路が渡してあり、渡るとそこが浴場になっている。 
就寝前の寝湯に利用しよう。

泉質は酸性泉(旧名:酸性緑ばん泉)で、pH 2.48と酸性がチョッと強いのもよい。
効能は皮膚病、胃腸病、神経痛、筋肉痛、関節痛などに効用があるとか。


次回、 「岳温泉



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東北紀行(19)二本松 「智恵子抄」

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 東北紀行(19)二本松 「智恵子抄」   、





薬師岳に立つ「本当の空・・、」の標柱



あどけない話』 高村光太郎 詩集「智恵子抄」より

智恵子は東京に空がないと言ふ、
ほんとの空が見たいと言ふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ
あどけない空の話である。




智恵子抄』  唄:コロンビア・ローズ <昭和39(1964)年>

東京の空 灰色の空
ほんとの空を 見たいという
拗ねてあまえた 智恵子
智恵子の声が
ああ 安達太良の山に 
今日も聞こえる



智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる高村光太郎・『智恵子抄』の中の「あどけない話」より。 
その智恵子は「阿多多羅(あだたら)山の上に毎日出てゐる青い空」が“ほんとの空”だと言う。
智恵子の「東京に空がない」、「ほんとの空が見たい」という言葉に、今なお我々は何かドキリとさせられる。


因みに昨今、大気汚染や環境問題が取りざたされて久しいが、小生の知る昭和30年から40年にかけての東京の空は、郊外に出て眺めるとスモッグ(smoke・煙と fog・霧とからの合成された語であり、大都市や工業地帯にしばしば発生する塵埃や煤煙の粒子が凝結となった霧状のもので、自然の霧とは関係ない)や煤煙で真っ黒だったのである。


智恵子の実家と安達太良山の頂上を結ぶ東西の線の間に広がる安達太良高原であるが、智恵子と光太郎が安達太良山や同系の「薬師岳」に登ったという記録は無い。

次回、岳温泉「陽日の郷・あづま館




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東北紀行(18)二本松 「高村光太郎と智恵子」

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 東北紀行(18)二本松 「高村光太郎と智恵子」  ,




登山標識



薬師岳の展望地



紅葉風景と安達太良連山



紅葉風景とゴンドラ基地方面(ゴンドラが連なる)


ここが薬師岳山頂で標高1350m 。
本日は天候にも恵まれ、紅葉を求めて多くの見物人やハイカー等で込み合っていて、やや騒々しい感じがしないでもない。 そんな事全然気にならないくらい雄大な自然の風景に圧倒される。

少し離れたところに、『この上が、ほんとの空です』、という木製の碑が立っていた。 ご存知の高村光太郎が妻のために詠った「智恵子抄」の有名な一節である。 
確かに、今は広い空と澄んだ空気、そして豊かな山がそこにはあった。


智恵子(旧姓長沼)とは詩人・高村光太郎の妻のことであり、明治19年にここ二本松(福島県安達郡油井村字漆原、実家は酒造家で、資産家であった)に生まれている。
大学入学後に洋画に興味を持ち、卒業後も東京にとどまって油絵を学び洋画家となった。
その一方で女子思想運動にも参加するという賢女であり、高村光太郎と知り合って、大正3年27歳で結婚している。

だが、智恵子はどうしても東京の生活に馴染むことが出来ず、一年のうち3、4ヶ月は実家に帰っていたという。 
また、油絵もなかなか評価されることが無く、智恵子は悩んでいたらしいが、主人・光太郎は智恵子の素描(絵などを彩色を加えないで書くこと)は素晴らしく、力と優雅とを持っていたと評価している。

時折、「東京には空がない」という智恵子の愚痴や訴えを、光太郎は他愛なく、「あどけない話」として受け止めていたが、智恵子が病没(1941年)するに及んで「智恵子」に関する詩集を多数発表、これを纏めて冊子にしたのが「智恵子抄」である。 
30年間にわたって書かれた彼女に関する詩集は、詩29篇、短歌6首、3篇の散文が収録されている。 この詩は昭和3年に発表されている。


又、高村 光太郎は日本の彫刻家、評論家、詩人という多彩な顔をもっている。
東京の下谷に生れている。(現・東京都台東区)  本職は彫刻家・画家と言えるが、「智恵子抄」等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため、詩人として認識されることも多い。 

当初の光太郎は社会や芸術に対する怒り、迷い、苦悩に満ちたものだったが、智恵子と出会ってからは、穏やかな理想主義とヒューマニズムに包まれるようになったという。
光太郎は、「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と語っている。

詩集・「道程」も有名、他に評論や随筆、短歌の著作もある。

次回、「智恵子抄



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東北紀行(17)二本松 「安達太良高原」

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 東北紀行(17)二本松 「安達太良高原」  ,





写真:コスモス畑と「あだたらエクスプレス」




時刻は未だ14時を少々回ったところなので、この後、予定どおりお目当ての安達太良高原へ紅葉を愛でに参ることになる。
フロントに詳しい紅葉情報を伺いながら、案内図と割引券を戴く。旅館街上部から安達太良山系のロープウェイを目指して、山中のジグザグの道を暫く上ってゆくと、高原エリアに達した。 
既に、大勢の紅葉探勝や登山客の人々で賑わっている。
時間的に帰路につく人も多く、次第に空きスペースも出来て車は最も近い場所に駐車できた。

ここはあだたら高原スキー場の基部にあたり、「あだたらエクスプレス」というゴンドラの乗り場で、我々を凡そ10分で山腹(ゲレンデ最上部)まで込んでくれる。
乗り場周辺にはコスモスが今も咲いていて、やや花数が少なくなりつつあるようだが太陽に照らされて白、ピンク、黄色などの花を咲かせている。 色付き初めた山裾や花に埋もれた人物と共に、撮影には絶好のポイントでもあろう。

午後の時間帯もとっくに過ぎて、時間的には上り客はメッキリ少なくなっている。 そのため、ゴンドラ1函につき6人乗りであるが二人だけの悠々空中散歩となった。
終点の周辺は、やはりスキー場主体に造られたようで、ゴンドラ・レストハウス以外には造作物などは無く、些か殺風景な感じは否めない。 

尤も、安達太良山系は磐梯朝日国立公園(1950年9月5日指定)の一角をなして、公園自然の中に基準を超える工作物の建築、地形の変更や動植物、土石の採取などに対して厳重な管理がされているせいかもしれない。
大部分の人々は紅葉鑑賞の観光客であるが、この地はトレッキングコースも整備されていて、緩やかな山容の安達太良山へのトレッカー、ハイカーも数多く見受けられる。


ゴンドラの終点駅から安達太良山山頂までは1時間30分で行けるらしい。 
今回は山登りが目的ではないが、暫く、登山ルートを歩いてみた。 
ほとんど部分に木道が敷かれている山道は、低木の五葉ツツジやドウダンツツジの樹木に蔽われている。 
安達太良山系の頂部が少々見渡せるが、それ以外の周囲の様相、展望はまったく利かない。 
10数分歩いた後、下山者に周辺の様子を聞いたところ、30分以上行かないと状態は変わらないという。 
そこまで行くと「仙女平」というところがあり、そこではじめて安達太良連山の展望が開けるという。 

尚、安達太良連峰は, 「和尚山・安達太良山・船明神山・鉄山・箕輪山・鬼面山」が連なる山で、その中でも代表的な安達太良山は標高1699メートル、奥岳登山道よりゴンドラを利用すれば往復でも3時間ほどで登れてしまうらしい。
より近くで紅葉の山容が眺められることを期待したが、仕方なしに戻ることにした。

ゴンドラ山頂駅のすぐ上に薬師岳展望台があり、「薬師岳パノラマパーク」と称している。
パノラマパークといっても天然のテラスで、岩場のところに名前の通りのお薬師さんの祠が奉ってあり、すぐ横の鐘突台があって子供たちが嬉々として鐘を突いている
そこから彩り鮮やかな紅葉風景が山腹から山頂へ雄大に広がっていた。

次回、「高村光太郎と智恵子


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東北紀行(16)二本松 「岳温泉」

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 東北紀行(16)二本松 「岳温泉」  ,





写真:二本松の岳温泉街


二本松の「岳温泉」へ  、

さて、小生の故郷・いわき湯本で長々しき記載になりましたが、墓参を終えて我らは今夜の泊まり宿・二本松の「岳温泉」へ向かった。
岳温泉の上部・安達太良山系は現在紅葉の真っ盛りであることを、某テレビ局で報じていたので、それらも楽しみにもしているのである。

いわき湯本ICから「高速磐越道」を走る。 
途中、阿武隈高原SAでのんびり昼食を摂る。 
周囲は自然林に囲まれ、山並みはほんのりと色付き始めていて、いかにも田舎の雰囲気を醸し出しているエリアである。
外部の出店舗で特性に作り上げているカレーパンなど、外のテラスデスクで秋風に頬を撫でられながら食した。
食後に上さんが買ってきた「山ぶどうソフトクリーム」(300円)がこれまた絶品で、感動ものであった。 何でも、このソフトクリームは阿武隈高原SAだけでしか食べられないとか、イチオシであろう。

隣の席に居座っていたオバサン連が、盛んに「阿武隈洞」のことを話していた。 どうやら阿武隈洞の出かけていた其の途中のようだ。
阿武隈洞はこの地より数キロのところ、最寄の小野ICより10kmほどのところにある国内でも有数の巨大な鍾乳洞である。
小生も一度見物したことがあるがこの鍾乳洞は、一般公開されて以来「日本観光地百選コンクール8位」など数々の賞を受賞するなど全国的にも名が知られている鍾乳洞で知られる。  小生も故郷地域どもあり数度訪れているが、その雄大さ、種々の形態美、それらの奇観は想像を絶するものがある。

地下水による溶食と断層線に沿って岩盤が崩落してできた洞穴が8000万年という歳月をかけて乳白色の鍾乳石や石筍、更にはフローストーン(鍾乳石や石筍が発達して柱を形成したもの)に覆われ、幻想美を誇っている。 
中でも、あぶくま洞最大の景観である「滝根御殿」は、天井までの高さがおよそ30mと巨大なもので、10階建てのビルにも相当し、一見の価値はあるだろう。 
是非、お勧めしたい観光スポットの一つであろう。


さて、目的地の岳温泉は、東北道の郡山JCTから北上して二本松ICで下り、凡そ20分ほどで到着した。
温泉の中心街の入り口に、花時計・・?などで飾り付けをした大きな木の銘版が迎えてくれる。 
やや勾配の道路に清流が走り、その両側に温泉街であるお土産店や旅館が連なっている。 
そして一番奥まったところに温泉神社の鳥居が見えていた。 
宿屋はその温泉街の右側・上方にあった。 

立ち寄ってみると玄関らしきガラス戸に「正面玄関は裏手の道路側です」と書いてあって案内図が示してあった。
車を案内に沿って回すと、なるほど大きな玄関前のスペースと玄関フロアーがあった。 
先ほどの場所は裏側の玄関で、温泉街への出入り口であった。 それにしても賑やかそうな温泉街に正面玄関が面していないとは珍しい造りである。
旅館の名前は「陽日の郷・あづま館」といって、岳温泉では最大規模の旅館であろう。
大型バスで団体客も押しかけてくるホテルのような旅館である。



ところで、旅館とホテルの違いって何か・・?
ホテルのような旅館・・?、 その違いは・・?
普通、瓦屋根で和風つくりの宿が旅館で、鉄筋コンクリートで高層の建物がホテルのように思っていたが、実は、大まかに和風、洋式の違い、つまりそのまま西洋文化と日本文化の違いが呼び名を変えているようである。
基本的には顧客へのサービス面で、お客に何か言われない限り何もしないのが「ホテル
、何もいわれなくても、部屋へ通したらそのままお茶を入れてあげたり、時間になれば部屋へやってきて布団を敷いてくれたりするのが「旅館」のようである。
これは、顧客のプライバシーを重視し、プライバシーを守ることこそ最大のサービス、という考えがあるホテル(西洋形)と、全部「オマカセ」という、所謂、「上げ膳、据え膳」式の旅館(日本形)の違いであろう。
旅館業法によると、旅館は主に和室(敷き布団)で客室数が5部屋以上の宿泊施設、そして、ホテル(ベット式)は主に洋室で客室数が10部屋以上になり、更に洋式トイレが設置してある宿泊施設のことを言う。
その他、宿泊料金の計算方法なども多少異っているようである。

次回、二本松 「安達太良高原



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東北紀行(15)いわき湯本 「徳一と新興仏教」

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 東北紀行(15)いわき湯本 「徳一と新興仏教」  ,



「徳一」に関連して、東北における奈良期から平安初期における仏僧について

仏教界で大きく飛躍するのは奈良から平安にかけてで、特に、新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 
従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれる振興勢力であった。


その時期、「藤原徳一」というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 
当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。

最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 
徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる理論闘争(三一権実諍論:さんいちごんじつのそうろん:仏教の解脱・成仏の条件として「生まれながらの貴族的身分」が必要か否かといった問題を巡る論争)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 
最澄は徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。

一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 
会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている。
『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。 初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重・・・』
 

筑波山、湯の岳、大和の三輪山、そして相模・大山の類似共通性・・?、

小生拙宅(神奈川・厚木市)の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる。 山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。
思えばこの山も、筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似しているのである。 
この大山も、神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである。

平安前期の820年頃、空海が47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 
現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊が配してある。


同時期、東北にはもう一人偉大な人物がいた
これが最澄の弟子といわれるのが皮肉で面白い。 慈覚大師・円仁である。 
小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら有名仏閣の開祖でもある。

坂上田村麿の往くところ円仁の蔭があるともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 
円仁は最澄を超え空海を超え徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 
円仁」は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。

徳一」の偉大で、且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に努めた大人物であった。
その徳一が開祖した「いわき湯本の長谷寺」は、2007年(平成19年)で丁度、開建1200年の記念の年に当たる。 
御年にあたり盛大に開祖法要がなされたという。

次回、「二本松へ



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東北紀行(14)いわき湯本 「長谷寺」

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 東北紀行(14)いわき湯本 「長谷寺」   、


いわき湯本の「長谷寺」は、他の二院と比べてやや地味ではあるが・・?

因みに筑波山については、「筑波詣」の記録に「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲を貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。 
又、「筑波山縁起」によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得たる有様であった」と記されている。 
何れも、参詣者は途切れることなく大繁盛として記録されている。
筑波山・中禅寺は、筑波神社との神仏習合の地であった。

そして、磐梯山・恵日寺(慧日寺;会津の項で詳細に記載します)は会津地方最古の寺で、磐梯山の大噴火の翌年(807年)に開いたとされている。 
磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。 
無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 
恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いた。 今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っている。 
広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 
磐梯山・慧日寺は、磐梯神社との神仏習合の地でもある。


そして、地元・湯本の長谷寺は・・?、
宇治山・長谷寺」は、湯の岳をいただく裾野のいわき市は湯本にある。 
正確には、いわき市上湯長谷堀の内地区で、湯本温泉地から歩いてもすぐのところである。
長谷寺の現状は、上記の二院ほどの華やかさは今のところは無い。 
徳一が蝦夷開発の前線基地とし隣国の常陸にも近く、藤原家の後押しがされたと思しき長谷寺は、往時は壮大無比の大寺院と想定されている。 だが、今のところそのような痕跡はまったく無いのか、或いは発見されてはいないのである。
しかし、霊峰・湯の岳を仰ぎ、霊験あらたかな温泉神社を配し、道後温泉、有馬温泉とともに三大古湯といわれる「サハコの湯」の古湯に漬かれば良しとしよう。 これも藤原徳一の思し召しと思えば良しとしよう。


陸奥の国・「いわき湯本」が大きく拓けるのは平安中期以降の頃で、藤原家の人々や源家の武人が「勿来の関」で歌を詠み、「サハコの湯」に漬かって風雅に過ごしたとされる。 
後には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として 文人芸人の来遊が絶えなかったという。

次回は、 いわき湯本・「徳一と新興仏教




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