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東北紀行(110)会津 「恵日寺の盛衰」

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 東北紀行(110)会津 「恵日寺の盛衰」   、



会津磐梯山は猪苗代湖北方に位置する火山性の山で、頂上付近の直径約1.5kmの火口を抱き、円錐形の優美な山容を呈しているため「会津富士」ともいわれている。

万葉集の東歌にも

『 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 
             偲ひにせもと 紐結ばさね
 』
(会津嶺の聳える国から、遠く離れねばならなっくなった、だから愛しい君とも逢えなくなれば、せめてもの偲ぶよすがにしよう そしてこの紐をしっかり結んでくれ) 

と歌われ親しまれている。


民謡にも「 会津磐梯山は宝の山よ 」という歌詞は周知であるが、宝の山は無論、豊作を叶えてくれる神様の山という意味でもある。 
古来、磐梯山は山麓部の住民から農業、豊作を約束してくれる神の山として厚く信仰されていた。 
会津全域において、収穫された稲の束を磐梯神社に納める風習があったとされ、磐梯山信仰が、猪苗代町、磐梯町だけではなく、磐梯山が見える会津全域にあったともいわれている。 


近年の明治21年(1888) 磐梯山が大爆発(裏磐梯の各湖ができた)を起こし、付近村民に大損害を与えたが、平安初期においても激しい爆発を起こし、この時、標高が2000m以上あった円錐形のたおやかな山様が、概ね今の姿になったといわれる。 
無論、周囲地域にも大災害を発生させている。



奈良の高僧・藤原徳一が会津地方にやってきたのは其の直後であった。
徳一はこの時期既に、藤原仏教文化を東北地方へ広げることを実施、行動に移していたときとされている。 

直前になって民衆信仰の山でもある磐梯山の大爆発を起こして耕地は跡形もなくなり、住む家や食物を失った人々が道端に屍を晒し、相当に難儀しているときでもあった。 
元より会津は磐梯山信仰の厚い地域であり、徳一は必然的に民衆救済の大目的をもって会津へ赴いたのかもしれないのである。


徳一は、磐梯明神に観音を授けて、慧日寺というお堂を設け、先ず、住民救済と布教活動を行ったのである。 
神仏混交された慧日寺は時代を経るに従って、次第に民衆の支持を集め、時を経るに従って隆盛を極め、一大仏教王国を築きあげたのである。

往時の寺院隆盛の頃のエリアは、現在の磐梯町の広さの数倍の規模であったともいわれていわれ、最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3800とも伝えられている。
いかに強大で凄い規模であったかが判る。



だが、さしもの仏教王国は、戦国期の天正17年(1589)伊達政宗の会津侵攻により慧日寺は炎上し、衆徒離散して廃墟となってしまう。 
その後、江戸期までどうにか存続したが、明治初期の神仏分離政策、廃仏毀釈の令とともに廃寺にされたのであった。

もし、伊達政宗が焼かないでそのまま見過ごし、又、廃仏の憂き目にあわなかったら国内でも真っ先に世界遺産になったことだろうとも言われている。、

次回、「恵日寺と振興仏教



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東北紀行(109)会津 「高僧・藤原徳一」 

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 東北紀行(109)会津 「高僧・藤原徳一」  ,



藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、常陸の国(鹿島神宮・祭神 武甕槌命)の出身で藤原氏の始祖にあたる。

大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名である。 
その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
藤原不比等は日本という国家の大元を作った人物として有名であり、その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。


徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したのである。


石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 

つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていた。



大和朝廷の新勢力は九州から畿内へ、更に中部、関東と広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であった。
道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。 


仏教の普及が、古代からの信仰と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。

「藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥地でもある常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出の拠点として陸奥の南端では東の街道が石城であり、そして、西の街道の「会津地方」であった。

徳一は、筑波山に中禅寺を、石城には湯の岳山麓に長谷寺を置き、磐梯山麓に恵日寺を置いて根本道場としたのである。 

その時、藤原家の相当なる経済的、政治的な側面援助があったことは言をまたない。 

次回、「恵日寺の創建



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東北紀行(108)会津 「慧日寺の古縁起」

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 東北紀行(108)会津 「慧日寺の古縁起」  ,


先ずは、小生の故郷でもある同じ東北の石城地方について・・! 。

石城は古くからは関東圏に内包され、東北地方ではもっとも早く開発されて、大和朝廷化した地域であることは確かとされている。 

弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると、石城地方がある時期、東北地方でもっとも豊かであったらしい。 
季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


東北南部は、蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(平城京)へ向かおうとした地域とされている。 
だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断され、更に蝦夷の動乱は田村麻呂によって悉く阻止されている。 

朝廷の東北進出は初め武力が主であったが、経営的には文化の両面からも行なわれたとされ、その文化の面では特に「宗教」に力を入れたのではないかと思われるのである。


飛鳥初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の詔が出されるまでに到る。 
後に、布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は仏教教化の重要な拠点であったのではないかとも言われ、その中の一人に「藤原徳一」という名僧がいたことは史実でも明らかにされている。


徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男と伝えられている。 

初め東大寺や興福寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下った。
新興宗教の空海とも相容れず、最澄との間で一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)を展開したことは有名である。 
この間、常陸国筑波山、陸奥国会津など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。



大和の三輪山  、

我が家の実家(いわき湯本)から徒歩で10分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。
 
徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 
それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる。 
古来、湯の岳は地元民衆の根本的な信仰の拠り所であった。

徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。
この山全体が徳一観音信仰の霊場と決め、 修行に勤しんだのかもしれない。 

徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。



奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 
神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。
日本において神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称した。
そこで三輪神社の神宮寺は、大神寺、通称、大御輪寺であった。

三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。
神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになった。 
さらに日本全土を大和と呼び習わすようになったといわれる。 

大和朝廷の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代天皇家の地となった。

これら大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 

「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。
ここで現われたのが高僧・藤原徳一であり、徳一は宗教文化普及のため蝦夷(えみし)の国・東北に出向いたのであった。


次回、「高僧・藤原徳一



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東北紀行(107)会津 「磐梯山・慧日寺」

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 東北紀行(107)会津 「磐梯山・慧日寺」  ,


三つのゾーンの内、次に「戒壇地区」は本寺地区の西方にあり、丘陵末端部を利用して作り出された小山状の遺構が残っているという。 
「戒壇」とは、出家するための戒律を授ける場所で、戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。 日本では754年(天平勝宝6)に中国から鑑真を招き、東大寺大仏殿前に設置したことに始まる。

慧日寺の戒壇跡と伝えられてきたスペースは、その後の発掘調査によって平安時代の石塔や火葬骨片が出土し、墓域ではないかとも推定されている。 
尚、戒壇跡遺構の南側水田からは礎石建物や掘立柱建物、製鉄炉の遺構まで発見されているという。


次に「観音寺地区」は本寺地区の北東1.7km、二子山の麓・標高570~590mの山中に位置しており、5棟の礎石建物跡が露呈している。 
未だ発掘調査はまだ行われていないが、規模や配置から門、塔、本堂、倉の跡と推定されているという。

これら慧日寺の規模は、当時の奈良や京都に匹敵する仏教文化が会津にあったことを物語り、
これら史跡をぐるっと巡るだけでも凡そ1時間半もかかるという。


現在、磐梯町内のほぼ2割、17万平方メートルが国の史跡に指定されているが、往時の寺院隆盛の頃のエリアはこんなもんではなく、現在の磐梯町の広さの数倍の規模であったともいわれている。
最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3800とも伝えられ、いかに強大で凄い規模であったかが判る。


だが明治2年(1989)の廃仏毀釈によりさしもの大寺も 大半が廃寺になったが、大正2年(1913)には毀釈令も解かれ、往年の恵日寺を目指して徐々に復興を目指している。 

現在は、慧日寺跡として発掘調査が行われ、近い将来には主要建物を復元されるという計画もあるらしい。 
2007年4月、国の重要遺跡指定を受けている。



慧日寺の開基は、平安初期の大同元年(806年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との因果関係には人民信仰の必然性や山岳信仰上の関連もあるのではないかする見方もある。


開祖は、平安の初めに南都(奈良)法相宗の高僧・徳一によって開かれた寺院で、東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のものとされる。
他にも、徳一大師が開基となったといわれる寺院は会津地方を中心に福島県内に30数件あるともいわれる。

徳一大師は更に、東北の奥地へ足を延ばそうとしていたらしいが、会津より山一つ越えた米沢あたりで止まったとも見られる。 
米沢では徳一の開基といわれる笹野観音(米沢市笹野本町)が祀ってあり、伊達氏、上杉氏の信仰も篤かったといわれる。

次回、「慧日寺の縁起




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東北紀行(107)会津 「磐梯山・慧日寺」

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三つのゾーンの内、次に「戒壇地区」は本寺地区の西方にあり、丘陵末端部を利用して作り出された小山状の遺構が残っている。 
戒壇跡と伝えられてきたが、発掘調査によって平安時代の石塔や火葬骨片が出土し、墓域ではないかと推定されている。 
また、戒壇跡遺構の南側水田からは礎石建物や掘立柱建物、製鉄炉の遺構まで発見されているという。

観音寺地区」は本寺地区の北東1.7km、二子山の麓・標高570~590mの山中に位置しており、5棟の礎石建物跡が露呈している。 
未だ発掘調査はまだ行われていないが、規模や配置から門、塔、本堂、倉の跡と推定されているという。

これらの規模は、当時の奈良や京都に匹敵する仏教文化が会津にあったことを物語り、
これら史跡をぐるっと巡るだけでも凡そ1時間半はかかるという。


現在、磐梯町内のほぼ2割、17万平方メートルが国の史跡に指定されているが、往時の寺院隆盛の頃のエリアはこんなもんではなく、現在の磐梯町の広さの数倍の規模であったともいわれている。
最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3800とも伝えられ、いかに強大で凄い規模であったかが判る。


だが明治2年(1989)の廃仏毀釈によりさしもの大寺も 大半が廃寺になったが、大正2年(1913)には毀釈令も解かれて恵日寺として復興した。 

現在は、慧日寺跡として発掘調査が行われ、近い将来には主要建物を復元されるという計画もあるらしい。 
2007年4月、国の重要遺跡指定を受けている。



慧日寺の開基は、平安初期の大同元年(806年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかする見方もある。


開祖は、平安の初めに南都(奈良)法相宗の高僧・徳一によって開かれた寺院で、東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のものとされる。
他にも、徳一大師が開基となったといわれる寺院は会津地方を中心に福島県内に30数件あるともいわれる。

徳一大師は更に、東北の奥地へ足を延ばそうとしていたらしいが、会津より山一つ越えた米沢あたりで止まったとも見られる。 
米沢では徳一の開基といわれる笹野観音(米沢市笹野本町)が祀ってあり、伊達氏、上杉氏の信仰も篤かったといわれる。

次回、「慧日寺の縁起




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東北紀行(106)会津 「会津地方の仏教文化」

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 東北紀行(106)会津 「会津地方の仏教文化」   、




写真:慧日寺・金堂の復元工事は、平成17年12月から2年4ヶ月にわたり無事竣工。 一般公開されている。(資料)



会津地方についてはもう一つ大事なことを記さねばならない。
小生の田舎、同県の「いわき湯本」の項で湯本温泉や湯の岳、長谷寺、そして藤原徳一と仏教文化に関する事項を長々と述べたが、古代、この地方でもまったく同様か、或はそれ以上の壮大な規模で、一つの仏教文化が花開いたのであった。
それは、会津の人々の心の支柱にもなっているかも知れない精神文化、巨大な仏教文化の華が開いた時期があったのである。 


会津地方の人たちのねばり強さや頑固さは、厳しい環境の中でも信念を曲げずに意志を貫いたのは、「徳一大師」にそのルーツがあるともいわれ、徳一という名前を知らなくても会津の人々は知らず知らずのうちに徳一の心に包まれながら生きているのかもしれないのである。
それは「慧日寺」という古いお寺で、藤原徳一という奈良の高僧が創建した一つのお堂から始まるのである。


会津若松の北側の隣町に磐梯町がある。 
磐梯の町並みの北側一帯、大きくは磐梯山の麓、近くをいえば雄国沼を囲む古城ヶ峰、二子山、扇ヶ峰の山腹から直下にかけて広大な規模の「慧日寺」の境内が広がっていたのである。 
端的いうと、盛んな時期にはこれはお寺の境内というような規模ではなく、慧日寺本堂を中心とした仏教王国が展開されていたといってもよいかもしれない。

最近では地元の人々の長年の宿願が叶って慧日寺金堂が再建されたのをはじめ、現在、建物は徳一廟、薬師堂、恵日寺、磐梯神社、不動院龍宝寺、馬頭観音被覆堂など伽藍、お堂、宝塔などが広大なエリアにぽつぽつと確認されている。

その広大な寺跡は昭和45年(1970年)に国の史跡として文化財にも指定され、将来に向けて復元整備が図られているところであり、平成20年4月に真新しい真っ赤な金堂が復元され、一般公開される運びとなっている。
将来的には、史跡公園として一部の重要な建物を復元しつつ、付近一帯が重要な文化財として広く公開される計画であるという。


この広大な境内地域は三つのゾーンに分かれているという。
中心地域である「本寺地区」は、慧日寺の中心伽藍があった場所で、発掘調査によって創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されたことが判明している。 

また、現在は中心伽藍遺構の東側に薬師堂と仁王門、さらにその東に龍宝寺不動堂と乗丹坊供養塔、中心伽藍の北には徳一廟が残されている。 
現在の薬師堂は明治時代に再建されたものという。 

徳一廟の内部には平安時代に建立されたと推定される五輪塔があり、徳一の墓と伝えられている。 
また、龍宝寺不動堂裏手の森には往時のものと思われる土塁や石塁が現存している。 
現在、中心伽藍跡は史跡公園として整備されており、平成20年(2008年)には金堂が復元された。

次回、「磐梯山・慧日寺




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東北紀行(105)会津 「斗南藩士(2)」

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 東北紀行(105)会津 「斗南藩士(2)」  ,


陸軍大将・柴五郎は、旧会津藩士・柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。

会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 
新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。

八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。 
彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。

彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なり、後に12年の予備役となっている。
薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、会津藩士として武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた会津人であったという。

新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 


挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し、父は、『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ・・、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・』と、常に叱責していたという。

 
会津藩士としてもう一人の傑出した人物がいた。 白虎隊士から東大総長へ出世した「山川健次郎」である。 

彼は会津藩士・山川尚江(なおえ)の三男として生まれている。
山川家は代々300石の中級藩士の家柄であった。 
だが、祖父の代には家老職となり家格をもりたてたが、父は幼い時期に亡くしている。 
兄は山川大蔵(後に浩:会津藩家、官位は陸軍少将男爵)、妹は後に鹿鳴館の華と云われた山川捨松(後の薩摩出身、元帥、陸軍大将・大山巌の妻)である。

15歳の少年の頃白虎隊に入隊したが、訓練の段階で鉄砲があまりにも重過ぎて健次郎を訓練から外したという。 
城に戻り籠城戦に加わったが、雨あられとふる弾丸の中で、毎日この世の地獄を見ていた。 そして、ついに城に白旗があがった。

会津戦争で敗戦後、猪苗代に謹慎していたが、その後、越後に脱走、こともあろうに長州藩士・奥平謙輔(長州・吉田松陰の門下生、明倫館の秀才で後の会津戦争では北越軍の参謀として参戦)の書生となっている。 
奥平氏に教授された健次郎は、アメリカへの留学生に選抜され国費で渡米している。

その後、彼は東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長を歴任していた。

次回、「会津と仏教文化




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東北紀行(104)会津 「斗南藩士(旧会津藩)」

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 東北紀行(104)会津 「斗南藩士(旧会津藩)」   ,


下北半島は、本州と北海道の間に斧のような形に突き出した半島である。 
陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは今も荒涼とした淋し気な景色が続く。

市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。 
普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である。
やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。
その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。
明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。  (小生;日本周遊紀行より)

日本周遊紀行: 陸奥・むつ 「旧会津斗南藩
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-5.htm



大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 
その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。


品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 
このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。
その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。
旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが、)・柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将になった人物であった。


斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、
『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり・・。霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることまれなり。犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』・・と。


戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。
領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。

その際「 農業により領地の財政基盤を築くこと 」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 
新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。
その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。

『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ・・、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・!! 』

次回、引き続き、「会津・斗南藩士



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東北紀行(103)会津 「戊辰戦争(2)」

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 東北紀行(103)会津 「戊辰戦争(2)」 



会津藩の戦い・・!!

1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を上げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。 

慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。 
しかし幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。 
だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。 
そして遂に「奥羽諸藩」による会津追討の命が下る。 

しかし、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 
遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。



戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。 
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非=えせ官軍と言う)に、母成峠、戸の口(猪苗代湖の北西部、飯盛山を掘りぬいて作られた会津盆地の灌漑用水路。戊辰戦争の時、白虎隊が追手から逃れる抜け穴としてこの水路を利用したといわれる)と攻められ城下まで戦火は及ぶ。
この時期に会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。


藩士家族は城内へ・・!  、

敗色濃厚、やがて鶴ヶ城は落城確実と見られた折、藩家族の一部は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。 
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。
 
藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する。 (実質的に会津藩の滅亡) 

 
その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。

次回、北の果て;「斗南藩士



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東北紀行(102)会津 「戊辰戦争(1)」

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  東北紀行(102)会津 「戊辰戦争(1)」  ,







『鶴ヶ城』 戊辰戦の弾痕跡も生々しく、今にも朽ちそうな鶴ヶ城(資料)と現在の姿




国道121号線は会津若松の中心市街へと連なる。 
更に、悲劇の城郭・「鶴ヶ城」の横を通って東山温泉へ向かう。


同県出身(福島県いわき市湯本)の小生は、会津若松は既に何べんとなく訪れている。 
今更ながらであるが若松は幕末悲劇の町の象徴とされていて、それらに関する史跡や神社仏閣、記念館などが数多く残っているのは周知である。 
だが、戊辰戦争の強烈なインパクトによって、それ以外の歴史的遺構は陰に隠れて霞んでしまうほどである。
それでも会津を訪ねるとき、この偉大なる大事変についつい魅入られてしまうのである。

過ぎる年、「早乙女 貢」の大河歴史小説・『会津士魂』を読破した。 
会津に遠籍を持つ早乙女 貢のこの本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。
特に後編の本州の果て、下北を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。
ここで、会津に関連しながら簡略な幕末史を覗いてみよう。



時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。
中でも戦国期以降の大事変については、「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。
特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。



幕末の動乱期・・・!!  、

幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。 
ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。 特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。 
この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。

この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。 
その後、「八.・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのが会津や桑名藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。

同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。 後任の25代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任することになり、そして風雲児・坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれている。 
幕府の屋台骨がぐらつき内政外交で窮地に立たされる中、薩長土佐の勢いが増す。 
そんな中、政局難に陥った慶喜は「大政奉還」(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。

次回、更に「戊辰戦争」



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東北紀行(101)喜多方 「酒、蔵、ラーメン」

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 東北紀行(101)喜多方 「酒、蔵、ラーメン」  ,






市内、酒蔵所MAP(酒蔵奉行所)




古くから酒や味噌などの醸造、そして蔵、ラーメンの街として著名になった・・! 、

道の駅は山間の長閑な雰囲気の静寂な地にあった。 
駅の裏には最上川の支流である鬼面川の清流が流れている。
これより新道なった大峠を越えると、福島県であり蔵の町、最近ではラーメンでも有名になった喜多方である。 


喜多方は、会津若松地方の北部に位置し、かつては北方(きたかた)と呼ばれていたという。
明治初期に小荒井、小田付などの各村が合併して北方から「喜多方町」が成立している。

会津が蒲生氏郷の時代、城と城下町の整備を命じ、武士と商工業の城下町集住を推し進めた。
一方、農業の整備も行い城下町以外の地を広く開拓し、農村での定期市なども開催した。 
以降、会津地方では若松を城下町、北の方・喜多方を農村部の都市的空間の在郷の町とした。 

喜多方が「蔵の街」として全国に知られるようになり、今日にその姿を残していたのは、当時の農産、醸造物などを保存するためのものでもあったのである。

「 喜多方は、いい米にいい酒、そして今や蔵と美味しいラーメン王国・・!! 」


喜多方には2600棟余の蔵があると言われている。
このように多くの蔵が建てられた理由として、米や農産物の貯蔵もさることながら、それ以外に酒蔵、味噌蔵として使われている蔵が多いと言われる。 
それは、この地が良質の水と米に恵まれ、醸造業を営む場として蔵が最適な建物であったことがあげられる。

だが、もう一つの大きなきっかけとなったのが、明治13年の大火であったともいわれる。
この火事は市の中心部の約300棟の家々を焼き尽くしてしまう。 その後は火に強い蔵造りの建物が多く建てられてきたことであった。


喜多方市は人口3・5万人(2006年の合併後5万人)に対し、120軒ほどのラーメン店があるという。 
これは対人口比では日本一であり、知名度に関しては札幌ラーメン、博多ラーメンと並んで日本三大ラーメンの一つに数えられることもある。
元より、喜多方は「蕎麦」(そば)の産地でもあるため、ラーメンの事を指すときは「支那そば」と区別して呼んでいた。 

日本では元々、そば類は「日本そば」が古来よりの食種であり、昭和の始めに支那風の面が出来たことから区別する意味で「支那そば」と称していた。

喜多方では昭和初期、市内ラーメン店の主人が小麦粉とそば粉ミックス中華麺に近い「支那そば」を打ち、日本そばの単純な味とは異なる豚骨スープなど中華風の味にしたことで評判をよんだという。

当時は、戦争の影響による食糧難の時代でもあり、この「支那そば」は市民にとって素晴らしいご馳走であり、その味はやがて市民生活に浸透していくこととなった。
その後、PRやマスコミ報道で一躍知られるようになったという。

それにしても、札幌や博多という大都市圏で広まったのにラーメンに対して、こちらは東北の小都市から発信され全国的に有名になったのには驚きであり、敬意を表するしだいである。



喜多方の町並みはからは殆ど途切れることなく会津若松の市街地へと連なっている。
会津若松はおしなべて大都市とは言いがたく、喜多方が若松のベットタウンではないかもしれない。 しかし、会津若松の衛星都市、郊外のよなもので共に特色を出しながら栄えているようだ。

喜多方は「戊辰の役」においては直接的な大規模戦闘や被害はなかったようだが、闘将家老・佐川佐川官兵衛の家族が避難してきた地であり本人の墓地もある。 
当然ながら、戦役に関連した史跡や墓地なども数多く残っているようである。

次回、会津・「戊辰戦争



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東北紀行(100)米沢 「米沢街道(会津街道)」

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 東北紀行(100)米沢 「米沢街道(会津街道)」  ,


国道121号線を行く。
この国道、山形・米沢では会津街道と呼び、会津からは米沢街道とも称している。 

街道の呼び名は各地方によっても異なるが、普通、行き先を告げたものが多いようである。 又、行く先の相手に敬意を払っての呼称かもしれない。
米沢と会津では西に聳える飯豊山の山脈が東に延びていてゆく手を塞いでいる。 

戦国期から江戸期にかけて、この山中を二つの米沢街道(会津街道)が貫いているのである。 
一つは大峠を越えるこの旧国道121号線であり、もう一方は5kmほど東にある桧原峠を越えて桧原湖畔をかすめる街道であった。


慶長3年(1598年)、秀吉から120万石を賜った上杉家は主城を会津(当時は黒川といった)に置き、主君上杉景勝が入った。 
一方、米沢は景勝の家老を勤めていた「直江兼続」が30万石で居を構えるようになる。

当時、僅か数年間であるが景勝は領地や米沢と会津を結ぶ主要道路の整備を行い、主君家と家老家は頻繁にこのいずれかの街道を行き来していたのかもしれない。


因みに、大峠越えの道が開かれたのは戦国期の天正13年(1585年)頃とされ、米沢の伊達政宗が会津侵攻の道として、ひそかに開いたとされる。 
一方、桧原峠越えは陸奥の国(会津)から出羽の国(米沢)て通じる道として、古代(8世紀代)には開かれていたらしく、戦国末期の永禄(1560年代)年間には米沢の伊達氏と会津の蘆名氏が檜原峠付近で攻防が繰り返されていたという。





会津街道;田沢地区にある道の駅・「田沢なごみの郷」



米沢から喜多方へ抜ける国道121号線の「入田沢」は、この国道沿いにある農村でここをを過ぎると喜多方への山越えとなる。
入田沢は小さな集落だが、訪れてみると民家が数棟あり、中門造りの藁葺きの民家は重厚な造りでなかなか良い集落である。

ここに道の駅・「田沢なごみの郷」があった。

豪奢な曲がり屋の建物がメインで、何でも180年余の間、農家として実際に使用されていたらしい。
建物はどっしりとした風格でほっと安らぎを与えてくれる雰囲気もある。 
中には売店と簡素な食堂がある。 

見るべきは やはり建物の中の柱や梁であろう。
江戸期や明治の庄屋や豪農の家屋を見るような造りで、特に屋内に横たわる黒ずんだ梁が縦横に走る作りは迫力がある。 
又、本来は当然ながら茅葺き屋根のはずであったが、消防法の都合で葺き替えてあった。









田沢地区、道の駅・「田沢なごみの郷」に立つ草木塔と説明板



ところで、この田沢地区には日本最古の草木塔があり、 草木塔発祥の地とされているらしい。 
この道の駅にも自然石では日本最大の草木塔(高さ4m20)を設置してあり、これには「自然保護」や「国土保全」 の意味合いが有るらしく、当地ではこの思想を全国にアピールしてゆきたいと考えているようである。


草木塔とは、「草木供養塔」のことである。
この塔は、山形県の置賜地方(内陸部南部を指す地方名)を中心に残されている石碑だそうで、現在、確認されている数は60基を越えるといわれる。 
このうち、最古のものは、米沢市塩地平にある草木供養塔で江戸中期頃、今から330年前に建立されている。

このきわめてユニークな石碑の由来は、草木の生命を人々の生活に取り入れるために採取したり、伐採したりした草木の霊を慰めようという思想から生まれたものと考えられている。 
今で言う環境保護の原点がここに在ったのである。
 
次回、「喜多方の産物



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東北紀行(99)米沢 「上杉鷹山」

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 東北紀行(99)米沢 「上杉鷹山」   、





上杉神社、参道横に立つ「上杉鷹山(治憲)」像




この時期、政権を手中にした太閤・秀吉は老齢に達していた。
上杉家の奥羽・米沢移転は上杉家の希望だけではなく、むしろ豊臣政権側の都合が大きかった。 
この頃、豊臣二代目と目された秀頼には有力な身内がいなかった。

豊臣家臣・五大老の中でも徳川家康が図抜けていて、何より、“太閤秀吉に負けなかった男、太閤様の次はと徳川様”と影での評判も囁かれた。
秀吉は家康に対抗できる第二の人物を作ることだった。 

前田利家も有力視されたが、領地は家康の3分1 程度であり、これを補うために第三の策として家康を牽制する勢力を作った。 
それが奥州・上杉家120万石であった。

転封に当って景勝は・・、
「 よく判っておる。3年の内に地を計り、組を整え、城を築き、道を敷く、それができれば誰にも勝手な事はさせぬ 」
慶長3年(1598年)、44歳になった上杉景勝は、そう言い切った。 
そして心に念じた。
「 俺は越後上杉2代目ではない、奥州・上杉の創業者だ 」と


上杉景勝は家老・直江兼続に30万石を与えて米沢に入れ、伊達氏及び山形の最上氏に対する抑えとした。 
しかし、秀吉が没して数年後、徳川家康による「関ヶ原の戦い」が始まる。 
結果、東軍が勝利したが、上杉氏は家康に敵対したため1601年(慶長6年)、景勝は120万石(会津・白河・出羽国・越後国、佐渡国など)から30万石に減封され、居城も米沢に移した。 
兼続は米沢城を景勝に譲り、「米沢藩」が成立する。

石高は30万石から、後に15万石に減封されている。 
しかし、相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数は120万石当時とほぼ変わらなかったため、当然のごとく財政難に苦しめられて民衆も極度の困窮した。


ここで登場するのが上杉家中興の祖といわれる九代藩主「上杉治憲」(鷹山;ようざん)であった。 
鷹山は米沢藩再生に伴う藩政改革、財政再建した人物であり、江戸時代屈指の名君として現在に到るまでその名が知られている。

有名な鷹山の一言

『 生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり 』


又一方、米沢藩には世を騒がした藩主もいた。 
元禄赤穂事件の、もう一方の主人公である「吉良上野介吉央」の息子である三之助は、縁あって名門上杉家の家督を相続し、第四代当主・上杉綱憲となっている。

刃傷・松の廊下以来、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り戦闘の末、上野介の首級を挙げる。 
この時、上杉藩主・綱憲は父・吉良吉央の仇討ちに出兵し、赤穂浪士を逆に襲撃しようとするが、家老・千坂兵部高房によって押し止められる。


上杉神社」は、藩祖・上杉謙信を祀り、上杉鷹山を合祀している。 
参道には鷹山公の銅像も立つ。 

又、「上杉家廟所」は上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいる。

次回、「会津若松へ」



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東北紀行(98)米沢 「上杉氏」

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 東北紀行(98)米沢 「上杉氏」  ,

 

山形・南陽道から米沢の北を通って会津街道へ到る。

米沢も過ぎる年、山形観光の帰りしな、上杉家に関連ある神社や廟所、寺院を見学している。
やはり、米沢は上杉家の街であり、上杉家に関する地域造りや行事、祭りなどが盛んに行われている。 
上杉氏との縁で出身地でもある上越市との関係も深い。


元より米沢は戦国期は伊達氏の本拠地となっていて、独眼竜こと伊達政宗は米沢城で生まれていて、仙台へ移転するまで米沢を支配していた。 
しかし、豊臣秀吉の時代以降には上杉氏が奥州、米沢を領地にしている。

上杉氏(謙信;長尾景虎)は何といっても戦国時代、宿敵武田信玄との五度にわたる「川中島の合戦」は名高い。



上杉氏の元を辿れば、発祥地は丹波の国・上杉の庄(京都府綾部市)を領して上杉を名字とし、公家(朝廷に仕える貴族・文官)の家柄であったという。
室町初期、鎌倉公方・足利基氏の執事(関東管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した。 
族として主に山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ・こちらも鎌倉の地名))二家が出ているが、関東管領の職はもっぱら山内・上杉家の当主が独占した。  
小田原北条氏が関東の覇権をするの及んで、上野(こうずけ・群馬)の国に所領を持つ山内・上杉憲政は関東を放棄して、越後守護代として勢力を張る長尾氏を頼り、関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ったのである。 
この時、扇谷上杉家は後北条氏に敗れ滅亡している。 

長尾氏は上杉と名乗り、景虎は越後の春日山城にて初代上杉藩主となる。 
だが、上杉謙信は越後を平定した後、関東への陣触れ直後、脳溢血で倒れ。
享年49歳であった。

謙信が亡くなると「御館の乱」で、謙信の二人の養子である景勝と景虎が後継者争いをし、景勝が勝利して上杉家第二代当主となっている。

豊臣政権になると上杉景勝は豊臣秀吉の重臣となり、秀吉の五大老まで登りつめた。

次回、「上杉鷹山



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東北紀行(97)上の山 「上の山方」

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 東北紀行(97)上の山 「上の山方」   、




蔵王山の麓にあることから、克っては、この地方を「山方」と呼ばれており、大きく分けて南側を「上の山方」と呼び、北側を「下の山方」という呼ばれていたらしい・・!


再び蔵王エコーラインから、今度は直に「上の山」(かみのやま)へ下った。
上山バイパス(国道13号線)から市街地のほぼ中央、白い城壁の上山城がチラホラ見え隠れしている。

思えば、一昔前に山形の名所である出羽三山や最上川、立石寺などを周遊した時に、都会風の温泉地でも知られる上山温泉に宿泊している。 
あの時、城下近くの旅館に宿泊し、お城・天守閣を見物していた。 
白い城郭の中は鉄筋コンクリートの作りでエレベーターも設置され、上山の文化や歴史を知る資料館になっていた。


上山城は城主を代えながらも、戦国期には華々しく活躍した城であった。
戦国期には山形の最上氏と米沢の伊達氏(前の領地;伊達政宗はこの地で出生している)が、この地で何度も攻防戦を繰り広げている。 
又、関ヶ原の戦い当時においても上山城(米沢上杉氏)が山形城(最上氏)への最終防衛ラインの一つとなり最上勢が上杉勢を食い止めた場所ともなっている。

しかし、江戸期の城主・土岐氏の改易によって幕府の命により跡形もなく破壊され、それ以降、上山は城を持たない城下町になっていた。


上山は羽州街道と米沢街道の交差する交通の要所として知られ、宿場町としも大いに栄える。
又、温泉は15世紀頃には既に開湯せれていて良質な温泉としても世に知られ、会津の東山、庄内の湯野浜と並び、奥羽三楽郷の一つに数えられている。 
江戸期には上山藩直轄となり共同浴場などを開設、湯治客だけでなく羽州街道の旅人や住民まで解放し多いに賑ったという。 

上山は城下町、宿場街、温泉街の三つを兼ね備えた都市で、全国的にも珍しいとされる。


古来よりこの周辺地域は蔵王山の麓にあることから「山方」と呼ばれており、大きく分けて南側を「上の山方」と呼び、北側を「下の山方」という呼ばれていたらしい。 
下山方」は後に「山形」と呼ばれるようになり、「上山方」は「上山」と呼ばれるようになったという。

普通一般に上、下の呼び名の違いは、神や氏神社に近い方、都に近いほう、或は実際に高地にあるため“上の地”(うえのち)と呼ぶ場合がある。 

「上山」はカミノヤマと読んでいて、実際にどういう理由で「上」になったかは定かでないが、 因みに、越後・新潟を上、中、下越と称しているが、都に近い方を上越と呼んでいるらしい。

次回、「上杉氏



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東北紀行(96)蔵王 「金剛蔵王像と神仏分離」

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東北紀行(96)蔵王 「金剛蔵王像と神仏分離」 









春の吉野山の金峯山寺・蔵王堂と立像の形相(wiki)




現在、吉野山の金峯山寺・蔵王堂に祀ってあるご本尊は「金剛蔵王権現立像三体」といって、何れも激しい憤怒の形相をしている。 
青黒い肌に逆立つ怒髪、燃え盛る火炎を背負って右手右足を挙げ、天空を睨み付けている。 

青黒い色は邪気を払う仏の慈悲、赤い火焔は偉大なる知恵とされる。 
蔵王権現は神も仏も全ての信教を含めた具現の象徴とされている。
この三体を両の手あわせて真剣に拝むと、邪気が払われ、幸運が巡るとされる。


金峯山寺・蔵王堂(国宝)の建物は、木造の建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模といわれ、本尊三体(重文)の「金剛蔵王権現立像」は、本地垂迹(ほんじすいじゃく:神仏混交における神が、仏・菩薩となって衆生済度のために仮の姿として現われる)においては、中央が釈迦如来、右側が千手観音菩薩、左側が弥勒菩薩の三尊とされ、何れの仏像も国内では最大級の6~7mと巨大さである。(重要文化財)

この三蔵は秘像とされ、通常は一般公開はさていない。 
但し、特定の日のみ御開帳という形で公開されている。



明治維新で神仏分離が行われると、吉野山は金峰神社となり仏像仏具は除去されてしまう。
しかし、山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができず、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束(へいそく;裂いた麻や畳んで切った紙を、細長い木に挟んで垂らしたもの)を立てたという。 

つまり、鏡(「三種の神器」の一つに八咫鏡(やたのかがみ)というのがあるように、古代から日本人は神聖なものと扱っていたとされ、神話時代には天照大神の化身ともいわれた)という御神体を表に立てて目隠しをしたのである。

しかし、信者や民衆の多大なる不満を背景にして、政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治19年に二つの蔵王堂が仏教に復したという。


当地の蔵王では明治2年(1869年)に「蔵王権現」を蔵王大神へと改号し、吉野より勧請して「天水分神及び国水分神」の二柱を奉り、社号を吉野水分神社に倣って「水分神社」(みくまりじんじゃ)としている。 
更に、明治8年に「刈田嶺神社」と改称している。

尚、天水分神・国水分神は、日本神話では神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子としてが登場している。 
つまり、国生みの主神である「イザナギ、イザナミ」の孫に当ることになる。

水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、又、田の神や、水源地に祀られる神で、特に農耕の民に信奉され、山の神とも結びついたとされる。 
後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになったという。

次回、「上の山



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東北紀行(95)蔵王 「刈田嶺神社と蔵王権現」

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 東北紀行(95)蔵王 「刈田嶺神社と蔵王権現」   、





「お釜」から刈田岳山頂に向かう「遊歩道」



刈田山頂



刈田山頂に鎮座する「刈田嶺神社(奥宮)」



麓の遠刈田温泉にある「里宮・本殿」




さて、再び馬の背の稜線に戻る。
左手に見通しの良い草原状の大地の向こうに程良い遊歩道が延びていて、その先の三角ばった頂上にお社が鎮座している。 
 三角のお山は刈田岳(標高 1758m)で、その頂上にある小社は「刈田嶺神社」という。 こちらは頂上にあるのでで「奥宮」ともいう。 

尚、蔵王連峰の東麓に位置する遠刈田温泉の同名社を「里宮」と言う。 
御神体は、夏季には山頂の「奥宮」に、冬季には麓の「里宮」にと、両宮の間を季節ごとに遷座している。


御祭神は、天之水分神 (アメノミクマリノカミ)と国之水分神( クニノミクマリノカミ)で、二神は姉妹神で、何れも水を司る神である。
天之水神は、山頂の水の分配をつかさどり、国之水神は、地上の水の分配をつかさどる神とされ、互一対神をなしている。 
尚、江戸時代までは「藏王権現」と称し、蔵王連峰の“蔵王”は、蔵王権現に由来している。

神社由緒には、『 開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇2代緩靖天皇を奉祀せしこと地方伝説等に徴しても明なり。その後文武天皇の御宇仏教の余波として彼の修験道なるもの現れ、其の一人として有名なる役の小角天武天皇の白鳳8年大和国吉野山に鎮座せる蔵王権現即ち天之水分、国之水分二柱の御神霊を不忘山に奉還し山名をも蔵王山と改むるに至れり。』 とある。


さて、この蔵王権現(ざおうごんげん)とは、日本の独自仏教形態をもつ信仰対象とされ、インドに起源を持たない日本独自の仏とされる。 
本山をご存知、日本一の桜の名所でもある奈良県吉野町の「金峯山寺」、本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。 


権現」とは、仏が化身して神として現れること、その現れた権(かり)の姿をいう。 
元より、神は姿は無いもので、有ったとしても御神体とされる霊神か自然神であった。 
ところが古代、仏教が輸入された結果、日本では様々な神仏習合の現象が起こり、カミとホトケが混ざり合って「仏神」という仏体(仏像)となって姿を現したもの。


今から1300年前、修験道の開祖とされる「役の行者」(えんのぎょうじゃ;役 小角;飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、実在の人物だが人物像は後の伝説によるところが大きい。修験道の開祖とされている)により奈良・大峯山系の上ヶ岳において祈り出された我が国独特の根本仏が蔵王権現とされ、お堂を吉野山においた。
その後、権現信仰は全国各地に流布されることになる。


古来より名峰とされた各地の山々もそうであるが、日本百名山の蔵王連峰も古くから「不忘山」と称して自然崇拝対象の神の山であった。
飛鳥期の末の天武天皇の御世(680年頃)、不忘山に役小角という行者が吉野の金峯山寺・蔵王堂から金剛蔵王大権現を勧請して「権現社」が建立され、刈田岳山頂に祀ったとされる。 
後の刈田嶺神社(奥宮)および刈田嶺神社(里宮)であった。 
これ以降、修験道の修行の場となった奥羽山脈の当地を「蔵王山」と呼ばれるようになった。

平安時代中頃には空海の両部神道(空海が開いた真言密教の立場から解釈された神仏習合思想)を唱える修験者が多数修行するようになったという。


役の行者(えんのぎょうじゃ)が、大峯山中で地上で苦しむ人達を救う神を顕現(けんげん;はっきりと現れること)するため一心に経を唱えていていると最初弁財天が現れたらしい。
しかし、役行者はこれは破邪の神としては優しすぎると考え、もっと強い仏が欲しいと更に祈ることになる。 

次に現れたのは地蔵菩薩であったが、地蔵は力の強い菩薩で基本的には慈悲の仏なので、
役行者はもっと“荒々しい仏”が欲しいと祈る。 
すると、突然凄まじい雷とともに、憤怒の形相の仏が炎の中から現れる。
これが「蔵王権現」であった。

次回、「金剛蔵王像と神仏分離



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東北紀行(94)蔵王 「蔵王のお釜」

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 東北紀行(94)蔵王 「蔵王のお釜」  ,





リフトから「お釜」へのルート





エメラルドグリーンの湖水を抱く噴火口の「お釜」




リフトからの眺めは絶景で、周囲は既に見通しの良い高原風の大地が波打っている。

すっかり葉を落とした枯れ枝に赤い実を付けたナナカマドの低木や這い松、そして今や枯葉色となった高山植物群などが見て取れる。 

やはり高山植物の濃い緑と多彩な花々に出会うのは初夏や真夏のシーズンも良さそうである。
いよいよお釜の内輪山(外輪山・・?)と思しき稜線が迫ってくる、「馬の背」というらしいが。 

リフトを下りるとコンクリート舗装された一本の道が稜線まで延びていて、更に天然の歩道を下ってゆくと果たして巨大な火口とともにエメラルドグリーンの円形の湖が姿を現した。   


前述したが、 “霧のお釜“とも呼ばれるように、大方に日はガスに閉ざされているらしいが、今日は絶好の日和で河口の底の石ころまで見えそうである。

湖水は天気や日差しによって見た時の色が、エメラルドグリーンだったり青色だったりコバルト色だったりと変わるので、別名「五色沼」とも呼ばれているようだ。

湖水の周囲はドス黒く噴火の激しかった当時を連想されるが、周囲は灰白色の火山灰で覆われ、雨水の流れた筋目らしいものが幾重にも並んでいて、妙な模様を描き出している。 

河口の右手は荒涼としたⅤ字峡谷を成していて、西側へ大きく切れ落ちている。 
大雨の時などには火山灰と共に泥流を引き起こすこともあるらしい。



全国の火山湖でも似たような形状をしているところもあるが、「お釜」(御釜)と名の付くところはここだけらしく、蔵王の代名詞にもなっている。
名前の由来は、火口が釜状であり水を張った釜に底からマグマの熱で熱くなるなのことから「御釜」という名前が付いたのであろう。



お釜は刈田岳・熊野岳・五色岳の三峰に抱かれた円型の火口湖で、勿論、火山性の湖なので強酸性であり魚は住んでいないであろう。 

過去に20回以上噴火を繰返しているというが、近年では、明治28年に大噴火したそうで、その後、小噴火や蒸気噴出など数回を数え、原型を今に残している。 
現在も湖底に何箇所かの気孔が存在し、火山ガスの継続した噴出が続いているのが確認でき、即ち完全な活火山でもある。


昭和43年の測深によると最大深度27.6m、平均深度17.8m、周囲1,080m、東西径325m、南北径335mという広さである。
湖の水は強い酸性のため生物は生息せず、水温は表面から10数メートルの深度で摂氏2度まで下がり、その深度を増すと温度が高くなるという“特殊双温水層”(深さによって温度が異なる)となる世界でも例のない湖だそうである。

流れ出る湖水は宮城県側のエコーラインに並行して流れる濁川の源流でもあり、名前を変えながら阿武隈川となって太平洋側に注いでいる。

次回、「蔵王権現



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東北紀行(93)蔵王 「蔵王エコーライン」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




東北紀行(93)蔵王 「蔵王エコーライン」 ,




エコーライン紅葉-.jpg
蔵王エコーラインの紅葉風景


坊平から先はかなりジグザグの急な上りである。
深い森林帯から低木林になり、やがてほぼ草原または高山性の潅木帯、山岳地へと変化してゆく。 

今日は風も無く、空には白い秋らしい雲がところどころに浮かぶ程度の絶好の行楽日和である。
“霧のお釜“とも称される蔵王名物の噴火口も、スッキリと見渡せるようで期待が高まる。
見通しの良くなった山岳ハイウェイをしばらく進むうちに、蔵王の最高所であろう連峰群が見通せるようになってきた。



一時して、広い駐車場と建物があり、そこから頂上へ延びるリフトが敷かれている。 
ここでチョット思案ししたが、詳細地図を見るとこの先、刈田岳頂上付近まで連なる「蔵王ハイライン」なるものが付いているので車を進めてみた。 
山頂ラインはどうやら有料道路のようで往復520円としてあった。
一旦戻って、付近を結ったり見物しながら上れるリフトに乗ることにした。


rihuto
お釜へ向けた「リフト」、”これより山形県・・?”


okama1
お釜周辺の概略図


駐車中の車は数台、紅葉シーズンにしては観光客のこちらへの人出は少ない。 
聞くところ、蔵王のエコーラインやお釜見物へくるお客さんは山形側より、どちらかといえば宮城、仙台本面からの人手が多いといわれる。 
尤もで、大都市の仙台や福島を控え、至近には東北道という主要幹線が南北に貫いているのである。 
更に、宮城蔵王側にはスキー場や道中各地に特色ある温泉もあり、景勝地としての見所も多そうである。


リフトはスキーの際の乗降ですっかり慣れ親しんでいるが、係員の懇切丁寧な扱いにはやや苦笑ものであったが、ともかく素直に従う。 
通称、「お釜リフト」とも言われているらしい。

リフトは殆ど地上擦れ擦れををゆっくりゆっくり進む。 途中、“これより山形県“という表示板が立っていた。 

”これは異なこと・・?
元より、お釜が宮城県側に存在していることは既に知っていた。 
そして当然のこと、この辺りは既に宮城県か、或はリフトが進むに従って隣県である宮城へ移行するものと思っていたが、意外であった。

その後、国土地理院の詳細図を確かめたところ、この付近の山形県の県境が東へ鋭角に突き出ている地点になっている。
リフトの乗り場は宮城県側になっていて、中間地点でこの鋭角部分の内側、つまり山形県側へ一端入り込むようにり、そして終点の150mくらい先で再び宮城県側に入り込むようになっているのである。

次回、蔵王の「お釜





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東北紀行(92)蔵王 「蔵王坊平高原」

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 東北紀行(92)蔵王 「蔵王坊平高原」   ,



oudai
広大な「蔵王坊平高原」(上部はスキー場)



蔵王連峰、蔵王温泉の「蔵王」という地名は、主峰の熊野岳を中心とした山形県と宮城県の奥羽山脈の南側一体を呼ぶもので、蔵王という山名は存在しない。 

蔵王という名称は、お釜で有名な山形・宮城県境の蔵王連峰の一つで、主峰熊野岳の頂上(刈田岳)に「蔵王権現」を祀ったことに始まるといわれている。 
それは飛鳥期末の頃で、これ以降、修験道の修行の場となり、当地を「蔵王山」と呼ばれるようになったとされている。




この後、その蔵王の名所でもある お釜、熊野岳へ向かう。
向かう途中、「鴫の谷地沼」という看板が目に付いた。 温泉街にほぼ隣接して、ひっそりとたたずむ湖沼「鴫の谷地沼」である。 
五月連休の頃、いっせいに水芭蕉が咲くことでも有名であるが、温泉地にも近く湖畔の眺めや吹く風も爽やかで、のんびりと散策したい人にはおすすめであろう。



グニャグニャした蔵王ラインから上山から上ってきた道と合流し、左折して更に進むとやがて蔵王坊平である。
10月半ばも過ぎ東北はいよいよ紅葉シーズンでもある。 
一般に東北では紅葉シーズンがやや遅れていると聞いたが、やはり温泉街の周辺ではそんな感じも受けたが、さすがに蔵王エコーラインに入り、お釜に向かうまでの道沿いにある紅葉は大分色づいているようである。 
ただ、もみじやナナカマド系の赤色より普通広葉樹の赤褐色から黄色系が多いようである。


坊平高原(「ライザ」ともいうらしい)は標高約1000メートル広がる高原で、スポーツ施設やスキー場もある広大な高原で気持ちがいい。 
周囲には白樺林もあり、ススキの穂が風に揺れている車のいない大きな駐車場で、一服しながら風情を観賞する。

今は、草紅葉のスキー場ゲレンデ(蔵王坊平高原スキー場)が、かなり上方まで延びているのが判る。 

その左手はグッと切れ落ちて仙人沢の清流が流れる。 
そこには観音滝や不動滝の名所もある。 
又、この辺りでは登山コースも整備されていて、主峰の熊野岳(標高1841m)まで延びている。

次回、「エコーライン」





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東北紀行(91)蔵王 「山形蔵王スキー場」

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 東北紀行(91)蔵王 「山形蔵王スキー場」  .





蔵王スキー場・全体MAP


蔵王温泉は、大露天風呂の他に公営の共同浴場として高湯通りに「上湯、下湯」、湯の香通りに「川原湯」などがが存在する。 

他に民営の源七露天の湯、新左衛門の湯、中央ロープウェイの乗り場横の「ZAOセンタープラザ」などの日帰り入浴施設もあり、下湯の前には足湯も設置されている。



温泉は蔵王連峰の西麓にある温泉で標高880mに位置し、古くは高湯とも呼ばれていたらしい。 
伝説によると、東征した日本武尊に従った吉備多賀由(キビノタガユ)によって西暦110年頃発見され、多賀由から転じて高湯と呼ばれるようになったという。 
実に1900年もの歴史を有することになる。

同県の白布温泉、福島県の高湯温泉と共に奥羽三高湯の一つともいわれる。
又、国内有数のスキー場である「山形蔵王温泉スキー場」に隣接しており、樹氷でも有名なことは周知である。  


スキー場は大小のゲレンデが20エリア、索道ケーブルがロープウェイ3基、大小のリフト40基ととてつもない大規模なスケールで、単独のスキー場としては日本で最大の面積を誇り、変化に富むコースが数多くある。
特にスキー場最上部の樹氷原コースではスキーを滑走しながら樹氷が見られることで有名で世界的にも知られている。


私事ながら、蔵王温泉スキー場へは温泉街の中に会社の保養所(NTT蔵王山荘、民営化とともに営業停止)も有って、家族と共に数回訪れたことがある。 
当節(1990年代)はスキーの最も盛んな時期でスキー人口も多く、週末などはゲレンデは人で溢れた。
そんなこともあって広大な蔵王のスキー場ゲレンデを全制覇するのには1日がかりであったことも記憶している。

関東圏から蔵王スキー場へ向かうには、東北道の村田ICから笹谷峠を越えるルートが最短であるが、当時は未だ山形道は全線開通はしていなかった。 
そんなある年のシーズンに車で蔵王に向かっている時、明け方近く笹谷トンネル付近で強烈スリップを起こし、反転して山側のU字溝へ落ちて動きが取れなくなり、大型車に引き上げてもらったこともあった。

次回、「坊平高原



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東北紀行(90)蔵王 「大露天風呂の写真」

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 東北紀行(90)蔵王 「大露天風呂の写真」  ,



蔵王温泉の大露天風呂は大自然の真っ只中にある。
森林浴と入浴が同時にでき、200名も収容できる巨大浴槽は、男女専用各2槽づつある。



駐車場からの入口



浴槽への風情ある通路



更衣室からの眺め(男湯)





二段式の露天風呂



上流側にある女性用露天風呂(観光協会)



ゲレンデ温泉- スキーシーズンに特別開放される大露天風呂(入口付近 観光協会)




蔵王温泉 大露天風呂
泉質: :酸性・含硫黄ーアルミニウム-硫酸塩・塩化物温泉
源泉温度: : 45℃~66℃
湯料: : 毎分 約5,700 ℓ 1日 約8,200 t
酸性度: :Ph1.25~1.6(中性は7.0)
浴用適応症: :きりきず・やけど・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病・糖尿病・高血圧症・動脈硬化症 


次回、蔵王のお釜へ



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東北紀行(90)蔵王 「大露天風呂」

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 東北紀行(90)蔵王 「大露天風呂」  ,
(写真は次項に気載します)




蔵王温泉街の上部に位置する「大露天風呂」の位置


露天風呂は更に急坂と歪曲した道を案内板に従って進み、そのうち結構な駐車場のあるところで到着した。 
この辺りは既にスキー場のゲレンデでもあり当り、上部の上ノ台ゲレンデからの中間地点で中央ロープウェイの基部である温泉駅に至っているようである。 
スキーで降りてきて途中下車ならぬスキー板を外して一風呂浴び、再び滑り降りて行くことも出来そうである・・?。 

しかし、残念なことに冬季積雪期間は休業らしい。
尤もで、冬季はここはゲレンデの中であり、一般車もここまで登ってくるのは困難であろう。
但しである、冬期間閉鎖している蔵王名物「大露天風呂」は一時期開放されるときがあるらしい。


蔵王温泉では冬の適時なシーズンになると毎年、御存知の「蔵王樹氷まつり」が行われ、この時色んな催し事があるが、その中の一つに大露天風呂が特別に無料開放されるという。

露天風呂はサンライズゲレンデと中森ゲレンデの連絡コースの途中にあり、概ね、スキー客の利用が殆どらしいが、雪景色の中で浸かる温泉は最高であろう。
因みに、2011年の「樹氷祭り」は2月1日(火)~2月7日(月)となっていたら。



早速、浸かりに行こう・・!

先ず、但し書きがしてあって、トイレがないので駐車場内で済ませるようにとある。
厳しい木戸門をくぐると屋根付の階段で下りていく、そこからは既に簾(すだれ)越しに男性のデカそうな露天風呂の一部が見えている。 

期待が高まる・・!、


特に、男性側の脱衣場が上の方にあるので、浴槽へ向かう途中で素っ裸の状態が通路から見えてしまう恐れもある・・?。
因みに、女性側は山側(上流側)なので、人から見られることはないと思われる。


管理棟は古色な造りの木造の建物で、中央部が入館受付になっていて、浴槽は(谷側)が男性、左(山側)が女性のようである。
男性の脱衣場は帳場横の待合室を通り過ぎる。 
脱衣所といっても、開放感満点の扉もない屋根だけ付いている建物で既に、大露天風呂が下方に見渡せる。 

脱衣場には「撮影厳禁」としてあるが、この情景、浴槽の得異な風景を見てカメラに収めたくなるのは必然であろう。 
幸い浴槽内には人の気配が無かったので、委細かまわず数枚のシャッターを切った。


入り口にはコンクリートの階段があって、あとは豪快な石組みの縁をおもむろに谷側に下りていく感じである。 
大浴場は二段造り になっていて、すぐ横には清流・・?、又は温泉水が流れていて風情を十分に感じ取れる。 

上段が少し熱め、下段がぬるめになっているようで、上段の三本の樋から新湯がガンガン投入されている。 


一見、エメラルドグリーンに見えるが、実は透明感のある白色で、硫黄の強烈な臭いが鼻をつく、酸性泉特有のキリッとした湯触りである。 
当然ながら舐めると酸っぱく、身体に傷があったり目に入ると沁みるし、特に、肌の敏感な小さな子供は長湯は止めたほうがよさそうである。

湯温は上部の熱めの所で42度以上はあるだろうか、下部の温めの所で41度ぐらいだと思われる。 
多分、100人程度入れる大きな湯船なので、どの場所が自分にとって適温か探すのも楽しみの一つであろう。 
山間地の谷間にあってロケーションは最高であり、長湯したくなる気持ちもあるが、無理すると湯当たりしそうでもある。




草津温泉の「西の河原・大露天風呂
(蔵王温泉、露天風呂写真は次項)


気が付けば、上州草津の「西の河原露天風呂」を彷彿させる。 
あちらは浴槽が500㎡という巨大さで、こちらの上下段を合わせた以上に大きい。 
泉質も塩化物硫酸塩泉というPh1.7の強酸性泉である。



次回、「大露天風呂」の写真集



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東北紀行(89)蔵王 「温泉と酢川神社」

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 東北紀行(89)蔵王 「温泉と酢川神社」  ,






酢川神社の参道




山形市街地を右に見ながら、上山IC手前、蔵王温泉へ至る高原道路へとすすむ。
急な上り坂を曲りくねりながら間もなく温泉街へ到着した。 

蔵王には会社の保養所もあり、スキーなど家族で何度か訪れているので、街の様子は些か承知はしていた。
珍しい、くの字に曲がるロープウェイ山麓線や中央ロープウェイの山麓駅を右に見ながら、先ず、観光案内へ向かい案内書、パンフレッドを戴きながら序に周辺の立寄り湯の良さそうなところを伺う。 

やはり、蔵王名物の「大露天風呂」は良さそうで、場所的には温泉街の外れ、かなりの高所に位置していて、くねった道路が何本かあるようだ。
観光案内所のほぼ正面に「高湯通り」というのがあり、直線道路で近道のようのだが酢川(温泉)神社というところで行き止まりらしい。 

スタンドの横から遠回りの右ルートをとることにした。 
曲りくねった細めの道はやがて酢川神社の参道階段に到った。 
車道はどうやら階段の中間位を横切っているようだ。

酢川神社の参道はかなり急な階段であり、幽玄な佇まいの中、両脇に四角い燈篭が並ぶ。 この参道は川柳坂ともいうようで、四角い燈篭には何やら川柳が記されている。 
尤も、文字を記すために灯篭が四角になったとも思われる。

温泉街からこちらまではかなりの坂で、おまけに上部は急な階段が待ち構える。 階段登りの疲れを癒すために川柳を考え出すとは、中々、意気な事をするもんである。

因みに、こんなんがあった。

『 上の湯は ゆっくり入れば 神の湯だ 』

上の湯と神の湯の“もじり“が面白い。 
上の湯はこの階段の直下にある。


因みに、チョッと名の知れた歴史ある温泉街には概ね温泉を鎮守する神社を奉っている。
小生の田舎、故郷のいわき湯本温泉にも「温泉神社」があるが、温泉そのものが湯神・温泉神として古来より崇敬の対象となってきた。 

その神を祀るのが湯神社・温泉神社であり、古代に発見された温泉の多くは、大己貴神(大国主)と少彦名神が発見したとも伝えられ、温泉神社の祭神である温泉神にはこの二神が充てられていることが多い。

因みに、寺院の場合は「温泉寺」と称して、薬師如来を本尊としている。
この如来は、法薬を与える医薬の仏として知られ、衆生の疾病を治癒して寿命を延ばし、災禍を消去し、衣食などを満足せしめて病を直すとされ、つまり、万病に効く温泉の仏なのである。


ここ酢川神社も祭神に大国主命 少彦名命 須佐之男命を祀り、神社由緒には『 当温泉の古名にして高湯温泉とも言われていて、蔵王山熊野岳に離宮がある(昭和27年蔵王山神社と改称)。 中世(平安期)の神仏融合により薬師如来を併せて祀ってあったが、明治維新の神仏分離令により、これを別院に移し、明治11年に元のように神社となった。 昭和34年社殿の改築を計り、旧社殿は薬師神社と改称し、先の薬師如来像を宝物として安置している。薬師像は国立文化財研究所の鑑定の結果、鉄佛であり、鎌倉時代の作で本県三仏中の一つである。 』 と記してある。

次回、蔵王の「大露天風呂



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東北紀行(88)山形 「戦国武将・最上義光」

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『東日本大震災』に遭われだ被災者の皆さん、「東北人魂」で一日(いじんち)も早い復興さ祈っからね。
全国の皆んな・・!!、東北は「自然、観光名所、温泉、祭」と見所が一杯有るだよ。 G・Wは「東北地方」さ、旅行にでかけっぺ。
東北・いわき出身の小生




 東北紀行(88)山形 「戦国武将・最上義光」   、




霞城跡(山形城址)と最上義光像



山形周辺は観光のメッカで、北の出羽三山から西の面白山高原から蔵王連峰、それに山寺の立石寺など全国的にも名が知られている。 

そして市内では戦国武将・最上義光に縁のある東北一の規模とされる木造建造物の専称寺や最上義光記念館、大正時代の洋風建築で旧県庁舎の文翔館、旧済生館本館など、そして何より山形の歴史を彩った霞城跡(山形城址)などが見所であろう。

霞城跡は山形駅のすぐ北側、奥羽本線の線路際にお城の大きさは約70万坪という
広大な敷地を抱き、現在は「霞城公園」として市民に親しまれている。
御城は戦国期の最上義光の時代に造られたという。 


元々、山形城と呼ばれていたが、別名「霞城」と呼ばれるようになった理由は、関ヶ原の合戦の頃、奥羽の関が原といわれた上杉・最上氏の戦いにおいて、直江兼続(上杉軍)が麓からお城を十日間見てたが霞がかかって何も見えなかったことから付けれたとも云われる。


山形城は、かっては本丸・二の丸・三の丸と城の主要な機能が配置されていたが、今はその殆んどが失われていて跡地を残すのみとなっている。 
現在、設計資料などを基に復元や復元する計画が実行されつつあると言うが・・!。



最上義光は最盛期には、東北では伊達政宗に並ぶ名将とされている。 
ただ、戦国武将としては余りに有名な伊達政宗の影に隠れてはいるが、実は、正宗は母方の関係で義光の甥にあたり、つまり伊達政宗の伯父がこの最上義光であることから、両者は親戚関係でもある。

関ヶ原の戦いに先立って、米沢城の上杉景勝の命を受けて直江兼続を最上義光の長谷堂城(山形県山形市大字長谷堂)に侵攻させるが、義光はこれを迎え撃ち、関ヶ原の戦いで西軍が敗退すると、今度は退却する直江兼続を追撃し戦功を上げている。
この戦果により最上家は出羽57万石の大領大名になり、本城としての山形城の改築、整備を開始している。


義光は、平城では日本最大級の広さを持つ山形城の拡張や城下町の建設、新田開発や社寺仏閣の造営など多くの実績を上げ、実石高は100万石とも200万石とも言われたとする。 
無論、義光が行った領国経営は、主城をもつ中心地の山形の町づくりをも積極的に行い、これが現在の山形市街地の基礎となっている。

しかし義光が死去すると家督争いが激化し、元和八年(1622)義光の孫・義俊の代に内紛理由で所領を没収され、近江に移されて一万石となりすっかり寂れてしまった。 
そして、江戸期には戦国の東北の覇者・最上家は衰退、消滅してしまうのである。
最上家は、家督相続やお家騒動に厳しい、徳川政権の犠牲になったとされる見方もある。

次回、「蔵王



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東北紀行(87)山形 「私事の山形」

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東北紀行(87)山形 「私事の山形」 ,



そして、山形市である。
山形」は小生の実家、というより生母の故郷であった。
其の本宅は山形市よりの西部地区、朝日山系の北の麓、朝日町の三中という山の中である。 

今は車の時代なので然したる苦労も無さそうであるが、小生が幼少の頃の記憶である戦中から戦後にかけては、実に田舎中の田舎、山中深く入り込んだところにあった。
当時、山形駅から左沢(あてらざわ)線に乗り換え、終着の左沢駅からバスで1時間ほどかかり、更に、徒歩で少1時間ぐらいは掛かったと記憶している。


私事であるが・・・、
親父が満州の「南満州鉄道」へ就職し赴任したのは昭和12年の頃であろうか・・?、その後、小生は昭和14年に満州・奉天(今の中国・瀋陽)で出生している。 

満鉄職員ということで、比較的安楽で普通以上の生活をしてたらしく、中国人やロシア人を家へ招いては茶会や麻雀などを楽しんでいたようである。

小生が物心ついた小学生入学当初、この頃から戦争の影響が次第に生活の中にも入り込むようになり、灯火管制など電灯に黒幕を被せて部屋を暗くして静かにしていたり、非常時の場合に備えて非常用具や防空頭巾などが手元に有ったのを覚えている。 
そして、この時期に不幸にも実母と妹を病(結核)で亡くしているのである。 


警戒警報や空襲警報が盛んに発令されるようになって、当時、鉄筋コンクリートの三階建ての官舎に住んでいた我々も、遂に地下の防空施設に避難するようになった。
それから後、間もなく日本は終戦を迎えることになる。 

だが、ある日突然、予想もしないことがおこった。 親父が「ソ連が攻めてきたらしい・・!」といって官舎の人全員に呼びかけ、取るものも取り合えず駅まで誘導し、我らも防空頭巾を被って貨物列車に乗り込んだ。 

後は、奉天駅から釜山(ふざん・プーサン)へ来たことは覚えているが、途中の長い道程(みちのり)は記憶が無い。
 

親父が満鉄職員ということもあり、奉天から朝鮮半島を経て釜山へは重要幹線ということもあって、比較的容易に来れたようである。 
因みに、親父の満鉄での業務は、旅客関係ではなく保安・保線関係の仕事であったため、比較的早めに解放されたらしい。 

奉天~釜山は、概ね東京から下関の距離で凡そ1100kmある。
釜山からは貨物船に乗せられて(載せられて)舞鶴に向かったのであるが、船中の居場所は船底の貨物室で、人々はごった返し、筵(むしろ)の上に居たのを記憶している。 
小生、6歳の時分であった・・!!。


因みに、満州とは・・、
大陸、特に中国東北部を、戦中は通称・「満州」(満州国・日本の傀儡政権国家ともいわれる)と呼んでいた。
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を契機に日本が占領し、翌1932年から1945年までは日本による傀儡国家(かいらいこっか)・満州国が建国された。 

満州国は、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ:映画、「ラストエンペラー」で知られる)が13年の間にわたって元首としていたが、1945年8月、第2次世界大戦終結直後にソ連軍が満州に侵攻、日本の敗戦と同時に消滅している。 
尚、翌年の1946年には、ソ連は占領した満州地域は中華民国(現、中国)に外満州を除いて返還している。


満州国建国当時、南満州鉄道(満鉄)は満州国が成立すると、日本から朝鮮半島、中国大陸へ向かう需要が急増していた。 
東京、大阪方面からは主要幹線である東海道本線、山陽本線が其々の地方を経由しながら下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山へ、更にそこから朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)へと乗り継ぐルートが最速であり、これを弾丸列車と称していた。 
中国大陸・満州へは、奉天から新京(現長春)、大連、旅順などを結んでいた。


さて、山形のことであるが・・、
終戦後の本土帰還から直ぐに山形の母の実家を訪ねているが、其の後も用事で2,3度尋ねたことを記憶している。 
朝早く福島のいわき湯本を出発、凡そ1日がかりで到着するという遠方であった。 
とにかく山の中で、生活は養蚕や家畜を飼って支えていたようである。 

それ以来、両親が亡くなるまでご無沙汰してしまったが、物心つき、山形の観光を兼ねて車でお邪魔したのを、懐かしく思い起こされるのである。 

次回、「戦国武将・最上義光




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東北紀行(86)天童 「将棋の駒」

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 東北紀行(86)天童 「将棋の駒」 



銀山温泉を後にして、この後、「蔵王」へ向かう。
山形蔵王は、先ず巨大なスキー場群と温泉がセットになっているのが人気で、東北地方ではその規模は最大級を誇る。 
スキーを楽しむ小生、家族等は、温泉街に会社直営の保養所もあって何回か訪ねたことがある。 

又、山形蔵王はスキーと温泉の他にも見るべき観光地も多く、春、夏シーズンはトレッキング、秋の紅葉が楽しめ、特に、蔵王エコーラインやその周辺の坊平、お釜、、刈田岳など見所は多い。
今回は蔵王の露天風呂とエコーラインのお釜を訪ねることにした。



羽州街道・国道13号線を南下する。
天童市内を走っていると、やたらと将棋駒を形どったオブジェが見れる。 ご存知、天童は将棋駒の生産地として著名である。 
将棋や囲碁に興味のある小生にとっては、些か、親近感を覚える地でもある。


天童市は駒の産地としての他にも、将棋に関する様々な催し事がある。
将棋フェスティバルや人間将棋、各種将棋大会もあり、特に、プロ将棋の公式棋戦、数々のタイトル戦も時折行われ、名人戦や竜王戦など幾多の名勝負が繰り広げられてきた。 
有名な羽生善治名人や渡辺 明竜王など多数来童しているという。


天童市は山形市の北に位置し、何と全国の将棋駒の約90%以上を生産するという。 
元はといえば江戸末期、天童藩の下級家臣の生活難の救済策に内職として始まったのが最初と言われている。 
当時、家老であった吉田家から伝わったとする資料も残っているらしい。


幕末当時は大方の藩がそうであったが天童藩も同様で、飢饉などによる税収減で困窮にあえいでおり、年貢の前借や藩士の減給、特産品である紅花の専売制を試みるも財政状況の改善には至らなかった。 
特に下級藩士の生活は苦しく、家老・吉田大八(守隆)はその救済策として将棋駒作りの指導者を米沢藩から招聘し、将棋駒の内職を奨励したとされる。

藩の内部には武士が内職を行うことに批判的な勢力もいたが、守隆は将棋が用兵の技量を育成するのに適した遊戯であり、その駒をつくることは武士の本分には外れないと擁護したと伝わる。 
この将棋駒の製造は明治時代以降も続けられ、後には全国生産量の殆どを占める天童の特産品へと繋がった。


当初の天童駒は付近の山から切り出した雑木を斧で割った木地に独自の草書体字が漆書きされたものであり、不揃いで庶民向けの低価格品が主であったという。
明治時代中期には東京から楷書体の駒が伝わり、大正時代には彫り駒の手法が取り入れられるようになり、また木地は機械で揃ったものが作られるようになって現在に至っている。
1996年、天童の将棋駒は伝統工芸品に指定された。

尚、将棋の駒で最も古いものは奈良県の興福寺から発掘されたものとされ、駒と同時に「天喜六年(1058年)」と記された冊子本が出土しており、駒の製作時期が11世紀頃であることがほぼ断定されている。

次回、山形





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東北紀行(85)銀山温泉 「銀鉱と温泉」

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 東北紀行(85)銀山温泉 「銀鉱と温泉」  ,



銀山川は下流の「丹生川」に合流し、最上川にそそいでいる。
丹生」のと言う地名は各地にけっこうあり、丹生は丹が出土するところ、即ち、「丹」とは赤土のことで硫黄と水銀との化合(辰砂:しんしゃ・水銀製造や赤色絵具の主要鉱石)したもので、水銀などを含む鉱脈と関連するようである。


この丹生川と関連があるかどうかわ定かでないが・・、
大昔、日本の最古とされる古書(魏志倭人伝)には「その山には丹(辰砂)あり」と記されていて、現に紀州の紀ノ川沿いには、飛鳥期の以前から水銀の採取を行っていたとする記録がある。
そこには丹生一族という専門集団がいて採掘、精錬をしていたとされ、現在その周辺には丹生神社という社が50幾つもあるという。


今でこそ、水銀と銀とは全く異なった物質であるが、大昔の人々は同一のものと考えていたようである。 
又、“金属(主に貴金属も含む)が産するところに温泉あり、温泉の出るところに金属あり“とも考えられていたようである。 

金属、特に貴金属の産する鉱床は「熱水鉱床」とされていて、地球の熱水(主にマグマによる)によって吹き上がってきた物質、或は、接触している周辺岩盤を溶解させ、長時間の間で山のように沈殿、集積したできた鉱脈が出来上がったものを指す。
熱水は温泉水を伴っていて、時には熱温水は温泉となって近くの地表に湧き出し噴出する可能性もあるという。 
特に、硫黄成分を伴う温泉は概ね火山性の温泉であるとされる。


銀山温泉は15世紀の頃、銀鉱山が発見されて間もない頃、ここで働く鉱夫が同様に温泉を見つけたのが始めと伝えられ、当時は鉱夫たちだけが利用していた温泉であった。
銀山の衰退後、当然ながら人々は去ってゆき人口は激減し、世間とは遮断された仙境であったが、それでも温泉は湧き続け、中には温泉を利用した湯治客相手の小宿や小商いを行って生活する者もいた。

江戸中期(享保年間)になると、鉱山が廃山になった頃から湯治場として栄え、幕末の温泉見立番付では「諸国温泉効能鑑」の東方四段目を付けられていた。

当時、『 うち身、かっけは最上の銀山湯 』と評判もたったという。


明治期のころまで数十軒の平屋建ての湯治場があったとされる。 
ところが、大正2年に銀山温泉は大洪水に見舞われ、殆どの温泉宿は流されてしまったという。
その後は洪水の影響と湯温の低下で一時、沈滞したが、大正10年に銀山川の水を利用した発電所が作られ、大石田出身の銀行頭取であった「田中 保」氏らの助言により、各旅館は一斉に洋風の3~4層木造構造に建て替えを行った。 
そして関連して橋や沿道の整備も行い、ついに尾花沢より短時間で来れるようになったいう。


戦後は温泉街の外観は純和風に改装され、風情ある旅館街、伝統を生かした街造りを更に促進させるという。 
昭和43年(1968年)11月には、「国民保養温泉地」の指定を受けている。
昭和61年に地元、尾花沢では銀山温泉を「銀山温泉家並保存条例」を制定し、併せて、延沢銀山遺跡は昭和60年に国の史跡に指定された。
平成11年には新幹線の延伸にともなって観光客の数も増え続けているという。

毎年、冬を迎えるとテレビ各局が温泉の番組の特番を放映する。
登場する温泉は北関東・東北の温泉が圧倒的だが、中でもここ銀山温泉がよく紹介される。
雪を被った木造三層・四層の旅館が立ち並ぶ温泉街の風情豊かさにあるのは周知である。





旅館中心街にある公衆浴場「かじか湯」、左は「旅館・永沢平八」




温泉街とは離れた場所にもうひとつの公衆浴場「しろがね湯




銀山温泉の外湯は現在三軒あり、泉質はどこも似たようなお湯で、先ず、「しろがね湯」は温泉街の端、足湯の近くにあって銭湯という感じの共同浴場である。 
8:00-17:00 大人500円/小学生以下200円

かじか湯」(大湯)は温泉街の向こう中央部にあって、昔ながらの小さな共同湯で、雰囲気は一番ともいうが。
8:00~20:00 大人300円/小学生以下100円

そして2009年6月5日に、貸切専用の公衆浴場『おもかげ湯』がオープンしている。 但し、料金は50分で2000円となっている。 
地元民専用の共同湯を一般向けに貸切風呂にしたので雰囲気はあるという、だが、値段が高いのが難点か・・?。
利用時間は10時~17時50分まで(最終受付5時)で、浴室は約8畳の広さ、脱衣所に入り内鍵を閉めて利用する。


銀山温泉の泉質は概ね同一で、含硫黄・ナトリウム-塩化物硫酸塩泉(含食塩硫化水素泉)で、効能は慢性皮膚病、高血圧症、動脈硬化症、慢性関節リウマチ、神経痛、痔、婦人病などあるが、特に、アトピー性皮膚炎にはきく温泉だそうです。
源泉数:4 、湯量:500リットル/分 、泉温:60~62℃、 飲用:可


銀山温泉観光協会」:http://www.ginzanonsen.jp/  
銀山温泉旅館案内」:http://www.ginzanonsen.jp/yado07.html 


次回、再び「羽州街道





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東北紀行(84)銀山温泉 「延沢銀山の歴史」

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 東北紀行(84)銀山温泉 「延沢銀山の歴史」  ,


尾花沢延沢の銀山は、室町時代の中期(15世紀中頃)加賀・金沢の儀賀市郎左衛門という人が発見したという言い伝えがある。 
市郎左衛門は、松島や塩釜の観光を経て出羽の国(山形)の出羽三山、湯殿山などの参詣の道すがら、彼はその晩「上柳渡戸村」(現、尾花沢市)に宿を取った。

その時、宿の主人から黒く光る石が笠頭山に沢山あることを教えられ、主人の案内でその山の鉱石を拾い集め加賀・金沢に帰郷した。 

その足で山師に品質の鑑定をしてもらったところ、素晴らしい良質の銀鉱石だったことを知り、人夫30人を連れて来て銀鉱石の採掘にとりかかったと伝えられている。



時は経て・・
戦国期の慶長年間には最上氏の家臣で延沢氏の領有下にあって山師に開山を命じ、江戸初期には山形城主の鳥居氏の支配する頃が銀の採掘が最盛期で、銀山はシルバーラッシュの時代となり、界隈は2万5千人の人々が軒を並べ、人で溢れたという。


『 野も山も町屋となり、花の江戸にもひとし 』

『 出羽の銀山、裸でいても 金や宝は掘り次第 』

とその盛況ぶりを表現している。



最盛期には島根の石見銀山兵庫の生野銀山とともに三大銀山と呼ばれていた。
これら三つの銀山の歴史は概ね共通していて室町期より採掘が始まり、江戸期に最盛期を向かえている。

小生の旅記録
日本の世界遺産」 http://orimasa2005.web.fc2.com/
世界遺産・石見銀山」 http://orimasa2005.web.fc2.com/ig-1.htm 



延沢銀山概史

康正2年(1456):儀賀市朗左衛門が銀鉱石を発見、翌年採鉱開始
慶長3年(1598):豊臣秀吉に最上金銀山より産金銀を上納した
元和8年(1622):鳥居氏山形城主となり延沢氏家臣銀山請負、
寛永11年(1634):鉱山の坑道は53を数え、人口激増、幕府直轄の公儀山となる
寛永13年(1636):尾花沢の天領(幕府直轄)となる
寛永19年(1642):銀山に代官陣屋を設け下郷天領を兼ねて治める
正保4年(1647):西山を掘り尽くし産銀量減少により東山に移るが成果なし
元禄2年(1689):大崩壊が発生
元禄15年(1703):産銀量減少で休山状態

次回、「銀鉱と温泉





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東北紀行(83)銀山温泉 「遊歩道と銀鉱跡」

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 東北紀行(83)銀山温泉 「遊歩道と銀鉱跡」  ,




白銀の滝 



せことい橋



翌朝は温泉街の外れにある銀採掘の史跡を訪ねることにした


その銀山川沿いに上流に向かって歩いていくと、すぐに街並は途切れて大きな白銀の滝が見えてくる。 
白銀の滝」といって意外と水量も多く、二本の堂々とした流れが滝壺に落ち込んでいる。

その上に出る道がこれまた良い、心地よい「長蛇渓」と呼ばれる川底が一枚岩になった渓流が、やや紅葉がかった周囲の景観とマッチして素晴らしい。
そこに架かる「せことい橋」も円弧を形どったレトロな橋、昔の風情があり風景にマッチしてよい。
右手の坂道をしばらく登って河畔にでると斉藤茂吉の歌碑が立つ

『 たらちねの 母がつりたる 青蚊帳を 
            すがしといねつ たるみたれども
 』 とある。





写真は儀賀市郎左衛門の像 





見学用の銀鉱跡坑内入口 




銀山鉱内の様子1 



銀山鉱内の様子2


そこをさらに上流に昇っていくと、銀鉱の発見者とされる「儀賀市郎左衛門」の像が建っていて、間もなく銀山の鉱洞跡がある。
見学用の鉱洞は2箇所あって短い距離ではあるが、鉱洞の中は昔の面影が偲ばれ迫力満点である。
銀鉱洞は延沢銀山の廃坑洞で坑洞内には黒ずんだ岩肌を貫いて鉄柵の歩道橋が付けられ、照明設備も整っている。 

なぜ岩肌が黒ずんでいるか・・?、
昔は、鉱脈の肌を薪木や木炭を燃やして表面を加熱し、其処を水によって急冷し、母岩表面から鉱床を剥ぎ取るように採掘するのだそうで、「焼き掘り」 と呼ばれる独特な採鉱法が採用されていたからだそうである。 
壁面には薪木や木炭を燃やした際に付着した“すす”(煤)が、現今になっても露肌に確認できる。





「疎水口」といわれる坑内入口


戻りしな、白銀公園の横にある洞窟を覗いてみた。 
入り口は立派な石組みをしてあって、こちらも銀鉱洞かなと思ったが、実は「疎水坑口」と記されてあった。
説明板には排水・運搬・通路を主目的とした坑道で、1kmを越える長さがあったが、現在は坑口から135m位の場所で崩落してしまっているとのこと。



銀山の遊歩道」について、地元の観光案内では以下のコースを紹介している。

◎ ゆったり散策コース(約1.9km 約90分)
銀山温泉街→白銀の滝→せとこい橋・籟音の滝→河鹿橋→夏しらず坑→銀鉱洞→儀賀市郎左衛門の像→滝の不動尊→山の神神社→銀山温泉街

◎ 銀鉱洞直行コース(約1.4km 約60分)
銀山温泉街→銀鉱洞→銀山温泉街

◎ 滝見コース(約0.8k 約20分)
銀山温泉街→せとこい橋・籟音の滝→コウモリ穴→白銀の滝→銀山温泉街



次回、「銀山の歴史




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