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東北紀行(133) 陸奥の国(東北地方)が「世界文化遺産」

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 東北紀行(133) 陸奥の国(東北地方)が「世界文化遺産」  ,





平泉藤原文化の象徴・中尊寺金色堂



古代、律令制(大宝、養老律令)が実施されてから「日本」という国名が付けられた。 
併せて、国の形や境界、地域国名、往来道路の名称が付された。

其の中で北の地、東北地方には陸奥国、出羽国という二つの地方国が置かれ、これが江戸時代まで続くことになる。
陸奥国と出羽国の領域に相当する地域を、両国の奥と羽をとって「奥羽地方」とも言った。

陸奥国の国府が仙台平野の多賀城に置かれ、出羽国の国府が庄内平野の酒田に置かれたが、ことでわかるように陸奥は「内陸国」の、出羽は「沿岸国」の傾向が見られる。

太平洋側(陸奥国)は、平野部がいわき市周辺、仙台平野、八戸周辺のみと乏しく、波も荒く海流も強いため、陸上交通は関東地方との関わりが深く「内陸国」としての歴史が綴られているのである。

一方、日本海側(出羽国)は、沿岸に庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野と、内陸部につながる沿岸平野が、ほぼ均等な間隔で存在しとぃる。 
日本海の北前船に代表されるように古代から明治時代まで、海運による京阪、近畿地方との関わりが深く、「沿岸国」としての歴史が綴られている。


古代、「陸奥国」は大和朝廷の勢力圏の北端に位置していた。
そして時代によって、陸奥の国の範囲は平安時代に入るまで定かでなく、大和朝廷が実効支配していたのはほぼ現在の福島県、宮城県の一部の範囲であって、それ以北は蝦夷(えみし)の支配する豊穣の地であった。

9世紀初頭になって、「坂上田村麻呂」を指揮官とする朝廷軍の侵攻により、大和朝廷の勢力は現在の岩手県にまで到達し、802年になって鎮守府と称する胆沢城(現在の岩手県奥州市)に移される。
その後、大和朝廷の勢力は順次北上し、10世紀半ばに岩手郡が成立して奥六郡が完成したと考えられている。

11世紀には奥州・安倍氏が大和朝廷から「六箇郡の司」と呼ばれる地位を与えられて、この地域に大勢力を築いている。
しかし、安倍氏は河内源氏の源頼義、出羽清原氏との抗争である「前九年の役」の後に滅亡し、奥六郡は出羽清原氏に継承される。

ところがその20年後、今度は出羽清原氏に内紛が発生し、これに源義家が介入して「後三年の役」と呼ばれる戦乱が発生。 
最終的に奥六郡は安倍氏の惣領であった安倍頼時の孫で、藤原摂関家の末流を名乗る「藤原清衡」(藤原4代の初代)が支配するところとなった。

その後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの凡そ100年の間、陸奥・平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張ることになる。

長治2年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立する。
永久5年(1117年)には基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。
その後、基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。

更に、天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。
屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。
奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となったのである。



※ 2011年6月、この陸奥の国・平泉地方に快挙が報じられた・・!! ,


フランスのパリで開かれていた国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、日本が推薦した「平泉」(岩手県平泉町)を、世界文化遺産に登録することを決めた。

日本の世界文化遺産としては、07年の「石見(いわみ)銀山遺跡とその文化的景観」(島根県大田市)に続き4年ぶり12カ所目になつという。

今年3月、陸奥の国は「東日本大震災」で大きい被害を受けただけに、「平泉」は被災地復興のシンボルとなりそうだ。

頑張ろう・・!、日本。
頑張ろう・・!、陸奥の国。



御拝読、有難うございました。






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東北紀行(132)只見 「六十里超え(2)」

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 東北紀行(132)只見 「六十里超え(2)」  ,
 


この辺りまで上ってくると、周りの景色を含めて遥か眼下に田子倉湖の眺めが壮大で、なかなかの絶景である。
気が付くと「六十里越峠開道記念碑」と記された石碑がドーンと座っている。

石碑には・・、
『 会越の窓開く六十里越峠開道記念碑 昭和48年9月内閣総理大臣 田中角栄 』   とあった。


今の若い人は「田中 角榮」(たなか かくえい)と言ってもピンと来ない世代が多くなっていると思うが、第64代の内閣総理大臣であった。
昭和の大政治家であったが、当時の高等小学校しか卒業していないため、秀吉に因んで彼自身「今太閤」と自称している。

仕事振りは「コンピュータ付きブルドーザー」と形容されるほど、知識量・実行力や巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。 
特に、土木建設業界には顔が利き、日本列島改造論で一世を風靡した。


新潟県柏崎市の出身で、常に大雪に悩まされる越後を妬んだ末、関東に対して・・、

その彼が・・、

『 皆さあーん。 新潟は半年も雪の孤島だ。 この雪をなくすため上越国境、三国峠の山を削って平らにする。 削った石や土を新潟の海に埋めて佐渡と陸続きにするんだ。 三国峠が平らになると、水気を含んだ冬の雲は新潟に降らないで関東平野まで行く。 海の手前で東京の野郎どもの上に雪が落ちる 』
と語っていた。

この発想は後に、「日本列島改造論」を着実に実を結ばせることになる。


この「六十里越え」をトンネルも無く、道路も細々と通じていた時代、侍の大軍団が通過しているのである。 
2009年のNHK大河ドラマで『天地人』(てんちじん)が放送されていた時期、この辺りにのガードレールに 『 天地人 上杉景勝六十里越で会津入り 』と張られた垂れ幕があったらしい。


先にも記したが、戦国期、秀吉の差配を受けたとき上杉家(上杉景勝)は、陸奥の国・会津120万石に封じられる。 
この時、上杉家と家臣団、領民込みで越後の春日山を去り、会津へ集団移民するすることになり、向かった峠越えがここの「六十里越え」だったそうである。

実際、会津側では八十里越えと六十里越えは隣接している峠道である。
先に、「 八十里 こし抜け武士の 越す峠 」と吟じたのは、幕末の長岡藩家老・河井継之助  
であったが、長岡からはやはり、「八十里越え」が近かったのであろう。


一方、時代はまったく異なるが、上杉景勝軍団は越後上越からの道程なので、こちらの「六十里越え」が便が良かったのであろう。

八十里越え」も「六十里越え」も、実際にいつ頃開削されたかは定かでないが、何れも相当古い年代から開かれていたことは間違いなさそうである。



小生も、六十里越えを間もなく通過する。 
とはいっても今はブーンと一走りでトンネルを抜けるのであるが、そして出たところは既に越後・新潟であった。


次回、「東北紀行」の終わりに寄せて・・!、




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東北紀行(131)只見 「六十里超え」

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 東北紀行(131)只見 「六十里超え」  ,






只見川水系最大の「田子倉ダム」と越後へ向かう「六十里越え」-




さて、道路すぐ脇の「水と電気の只見展示館」せ小用をしながら、内部展示物を何となく見物しながら、チョット休憩をとる。 
水のエネルギーをテーマに水車発電機の模型や水力発電等について現物展示しながら説明がつけてある。

受付窓口には品の良さそうな女性が、たった一人で退屈そうに番をしている様子なので、チョッと声を掛けてみた。

「 これから新潟・小出まで予定しているんですけど 」、地元で電源開発会社が用意してあるパンフレットを指差しながら、
「 そうですね、途中、田子倉ダムから六十里越えという険しい山道がありますが、30分もあれば充分でしょう。 ダムを眺めるのに、いい展望所もありますよ 」と親切におしえてくれた。



国道を走っていると先ず正面に小規模の只見ダム、そして次に巨大な田子倉ダムが衝立のように接近してくる。 
早速、ダムの右側より急な上りが始まった。 

越後三山只見国定公園『六十里越峠』と書かれた看板を見ながら、急勾配、急カーブが連続するタイトな道を高度を一気に上げて山道を登って行く。 
そして、急に視界が開けた場所に出た。 

「ハハーン、さっきのお姉さんが言ってたところかな」 既に車が数台も止まっていた。
この先は、スノーシェッドや小さなトンネルが続く。 

スノーシェッドは、鉄骨やコンクリートでつくられている光の届くトンネルのようなものであ
ろう。
雪解けや大雨で小規模の崩落は常なのであろう、崩落工事による片側交互通行の箇所もあり、かなり急勾配の上りで尚且つ円を描くような大曲小曲りが続く。 



ところで、ここ六十里越えの難所に鉄道が走っていた。 
JR只見線である。

元より、会津側、越後側(小出)両側の途中までは早い段階で開通していたらしいが、田子倉ダム建設に伴い機材、資材の輸送用として1971年(昭和46年)に「六十里越え」を貫通させ、両県がつながったらしい。 
其のほとんどの部分はトンネルの中を走るが、当初の目的駅である「田子倉駅」が湖面に沿って表に出ている。 
ただし、駅構内の駅舎はシェルターに覆われている為展望はきかないし、冬季は停車しないそうだ。


国道252号は豪雪地帯を走るため、冬季(年により異なるが、11月下旬から翌年5月中旬まで)には通行止めとなる。 
従って、只見線は越後・会津を結ぶ、唯一の交通手段となる。 

このような特殊事情により、経営に困難のある非常な閑散路線でありながら、国鉄再建法による赤字ローカル線廃止の対象除外となっていて、現代に至るまで路線廃止を免れているという。

最近の秘境ブームや熟年、女性の旅行ブームも手伝って、この只見線は、絶景の秘境路線としても知られている。 
その風情と車窓から眺める破間川・只見川の渓谷美、それにマッチした新緑や紅葉が美しいことで知られ、行楽シーズンは混雑することもあるという。

特にシーズン中、自然以外は全く何も無い「田子倉ダム駅」は人気だという。

2008年日本経済新聞によれば、只見線は「紅葉の美しい鉄道路線ベストテン」の第1位に選ばれており、過去には、2003年に「雪景色のきれいなローカル線ベストテン」の第3位に選ばれている。


次回最終、更に「六十里越え



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東北紀行(130)只見 「只見川」

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東北紀行(130)只見 「只見川」 .





電源開発を象徴する只見川(田子倉ダムより)




只見川は山深い会越国境を水源としていて、水の流れは豊富で満々として流れている。

思えば同郷(福島いわき)の小生が幼少中学生の頃、この只見川水系の電源開発について、グループではあるが研究発表したのを思い出した。

確かに、只見川は戦後、電源開発事業が大々的に行われ、一大電源地帯として脚光を浴びるという歴史を持ったいるのである。
今でも、只見町は電源開発の町と自称しているようである。

電源開発工事により、只見川水系(阿賀川、阿賀野川を含む)は、只見町内の田子倉ダム、只見ダム、滝ダム、黒谷ダムを含め20ものダムで閉め切られ、34の発電所が完成、その発電力は最大出力240万kWを越え日本屈指の大電源地帯となっているのである。


只見川は、標高1,665mの尾瀬沼を源とする急峻な河川で、町内では伊南川など多くの支川を合流し、阿賀川に合流する延長145kmの河川で、新潟県に入り阿賀野川となり、日本海に注いでいる。

源流域は積雪を含めて年間雨量も多く、尾瀬沼、燧ケ岳(2,356m)、駒ヶ岳(2,132m)、会津朝日岳(1,624m)、浅草岳(1,586m)などの山岳地帯であり、積雪5m以上の日本有数の豪雪地帯で、この雨、雪が只見川の水力発電に大きな原資となっている。

只見川の電源開発はすでに明治40年代には計画された経緯もあり、電源開発地域として古くから注目されていたらしい。  
昭和4年頃から水利権関係の交渉が始まり、現地調査を経て、昭和16年から只見川最初の宮下発電所(至近、会津宮下駅)の工事が始まった。


戦後政府は、戦後の経済復興にあたり、アメリカのTVA方式で電源開発をはかる特定地域開発計画をすすめ、昭和26年国土開発只見特定地域が指定されて、本格的な電源開発の幕開けとなった。

TVA方式とは、アメリカ合衆国中南部、テネシー川流域の総合開発のことで、1934~43年、ニューディール政策に基づいて流域に多くのダム・発電所・灌漑施設を造り、北部に偏在していた工業地帯を南部に拡大する要因となった。


次回、「六十里越え




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東北紀行(129)只見 「河井継之助」

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 東北紀行(129)只見 「河井継之助」  ,




越後長岡藩家老・河井継之助(かわい・つぐのすけ)は、江戸に上って佐久間象山らの教えを受け、蕃所調書(洋学の学問所で東京大学の前身)の頭取となり、西洋事情にも通じていた。 

ペリー来航後、藩主牧野忠雅に藩の進路を進言したが容れられず、一旦、長岡に帰るが、その後も藩事情を検分するため諸国を巡り、更に長崎を回って帰国する。 
藩主(牧野忠恭)に才を認められ、郡奉行・町奉行・年寄役と進み慶応4年(1868年)家老に任ぜられている。 


慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていき、朝敵の汚名をうけた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。

継之助は事を平和理に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監・岩村精一郎と慈眼寺において談判したが決裂している。
ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、さらに奥羽越の諸藩同盟を結成、その監督として善戦したが5月には長岡城落城、継之助は銃弾を受け負傷し戸板に乗せられて、部下千数百人とともに「八十里越え」から会津に逃れた。 
8月5日に只見に到着し傷の手当てを受けている。

12日に幕府の侍医・松本良順のすすめで若松に向けて出発し、塩沢に到着したが、継之助はすでに己の死を予感し、従者・松蔵に夕刻死期の準備を命じ、16日夕八時頃、静かな眠りに入った。
時に継之助42歳であった。


『 八十里 こしぬけ武士の 越す峠 』

この句は慶応4年、八十里越を戸板の担架に乗って越した長岡藩家老・河井継之助が詠じたものである。 
こしぬけ」は腰抜けであるが、越抜け、越後を抜ける意味もある。


司馬遼太郎氏の歴史小説・『』に、主人公・河井継之助が描かれている。
終焉の地・只見町塩沢には河井継之助記念館が建つ。


叶津番所跡は、南会津と越後を結ぶ唯一の街道八十里越の番所で、物資の流出を監視し、旅人を取り締まっていて、戊辰戦争での会津が降伏するまで代々長谷部家が守っていたという。

次回、「只見川




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東北紀行(128)只見 「八十里超え」

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 東北紀行(128)只見 「八十里超え」   、




国道289号線道は思ったよりも広く、紅葉を帯びたの中をスイスイと快適なドライブである。 
間もなくT字路にでる。 
左方向は桧枝岐から尾瀬に到る街道である。


伊南川沿いにチョット南へ下るとすぐ大橋、大新田という集落であり、田畑が広がっている。
広がっていると言っても、田畑の先はすぐに山、そして、山と川の間のわずかな土地に家や田畑が詰め込まれているといった感じである。
道端には道祖神や祠が目立つところである。 

其の中の一つ、道路沿いに小さな鳥居が立っており、先には小さな堂を見つけた。 
お堂の背後は岩山がむきだしになったところがあり、如何にも御神体といった感じである。 お堂の背後の山には岩がむきだしになったところがあり、その上に天狗の祠が祀ってある。 

この地区には天狗夫婦が喧嘩し、争ったという伝説があるらしい。 
すぐ近くは伊南村であり、争った天狗夫婦は近隣の微妙な人間関係を示しているともいわれ、このことは南郷村と伊南村の両村人々が、かつて何かの理由で激しく争ったのではなかろうかともいわれる。




点線国道289号線(別称・八十里越え)




これから先は只見方面へ向かうことになる。
只見町のほぼ中央を流れる伊南川に沿って行くと、やがて只見川を渡り越後・会津を結ぶ街道へ出る。

この国道289号線はすぐ隣の叶津から更に山中へ分け入り、そして、やがて越後・三条へたどり着くはずである。 
実はこの山越えは「八十里超え」といって難所中の難所でいまだ道路、車道は開通していないのである。 
つまり「点線国道」なのである。 


実は、国道とはいっても必ずしも車が通れる道路とは限ってなく、中には点線国道(大部分は峠周辺に存在し、利用者はその区間は徒歩での通行=登山する)、海上国道(海上部=船やフェリーを含めて一連の道路となる一般国道、もっとも長いのは鹿児島から沖縄を結ぶ58号線)はては階段国道(津軽・竜飛崎、339号線)なるものがある。


八十里超え」は新潟県側の最大の難所であるが、現在、主要部分のトンネル区間は盛んに工事中であり、間もなく開通するらしい。


この地は難所であるが、明治まで交通の要所だったらしく、街道はかつて「塩の道」と呼ばれ、越後と会津を結ぶ重要な街道で、幕末長岡藩家老の河井継之助が戸板に載せられて会
津に落ち延びた道としても有名である。

因みに、八十里越国道289号線は三条市と只見町を結ぶ街道であるが、実際に80里の道程ではなく難所は8里程度である。(1里は4km) 
名称の由来は「 八里の区間でありながら八十里もあるかのように急峻・長大な街道である 」という意味からきているという。

次回、「河井継之助




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東北紀行(127)南会津 「村の意義」

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 東北紀行(127)南会津 「村の意義」  .



21世紀は、「帰郷の時代」(Uターン又はIターン)とも言われる。 
つまり、村や田舎の時代が到来するといわれている所以であろう。        

古里の自然や人の繋がりは、懐かしいものである。
」という字を、漢字源で調べてみますと、村は『木+寸』で、「寸」は手の指をしばし押し当てること、つまり人々がしばし腰をおちつける木のある所を表すという。 

「村の風土」は人が育つために欠かせない要素で、人間は地上で生まれて死んで地に帰るものであって、つまりは地から離れるわけにはいかないのである。 
だから、人は地の徳(地の恵み)をよく考えるべきであると。 

我々は、その地で採れたものを食べ、身体を成長・維持させ、そして、死んでやがて地に帰る。 
地の恵み・「風土」に育まれて、活かされながら生きている。


身土不二」(しんどふじ)という言葉がある。
元々は仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せないという意味である。

昨今は、食養運動のスローガンとして「地元の旬の食品や伝統食は身体に良い」とされ更に、「人と土は別のものでなく一体である」、「人の命と健康は、食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる。 故に、人の命と健康は、その土と共にある。」という捉え方で、「医食同源」という言葉と根っこは同じである。


明治時代の人は、四里四方(16km四方)でとれる旬のものを正しく食べようという運動のスローガンに掲げた。 
現代の日本でこれができたら先ずは最高の贅沢といえるし、出来る条件は何処かといえば、それは「」であり、農村地域のあろう。


昨今、話題になる「帰郷の時代」は、もっと具体的で現実的である。
それは一つに「団魂の世代」(一般に1947年~49年生まれの世代)、二つに「少子化問題」、三つに「環境の時代」が要因になると言われる。 

この世代の、人口は700万人位といわれ、来年、再来年(2006、2007年)の定年退職者が4~500万人相当が対照になるそうで、「2007年問題」と呼ばれる。 
これらの人々の5割以上は、都会から田舎に移って、(所謂、Iターン、Uターンと言われる現象)第二の人生を田舎でのんびり・・?、暮らしたという願望があるそうだ。



序に、「」についての最近の話題を一つ。
岡山県に新庄村(しんじょうそん)という極小さな地域がある。 
人口約1300人足らずの村で、県の北西部に位置し鳥取県と境を接する。

2005年3月に周辺地域である上房郡北房町、勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村ら5町4村が合併し「真庭市」が発足している。 
ここで真庭市は面積は県下自治体の中で最大になったという。 
又、同年・同月に隣接する新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の1市4町が合併により新たな「新見市」が発足している。

その新庄村は大地域となった真庭市、新見市との間に挟まれ、今にも押し潰されそうな存在になっている。 
当初は当然両市から合併話はあったようであるが、新庄村は敢えて単独で存続することを選択したのである。 

1990年より就任4期目となった村長の小倉 博俊氏は 「 小さいからといって合併しないといけないということはないし、財政問題のみで合併してはならない。合併したとしてもメリットが無いと予想されるし、夢やビジョンも見えない。又、新庄の村民には歴史や文化を大切にしていて、自分たちのことは自分達でやるという主体性がある 」との強い意向を示している。

村民はそんな村長の意向を全面的に支持してきたという。 
つまり、吸収合併して大地域となったとしても僻地には変わりなく、行政においても僻地地域ということで取り残される恐れもあるし、尚且つ合併によって自主性が失われ、独自の政策が執りにくくなるというのである。

次回、只見・「八十里越え



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東北紀行(126)南会津 「南郷村」

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 東北紀行(126)南会津 「南郷村」  ,




田島の駅前から会津鉄道の高架をくぐり、直ぐに阿賀野川を渡って国道289号線を行く。

阿賀野川は南会津地方ではでは大川と称しているらしいが、さすがにこの辺りは山間の水源地にも近く(水源は県境の荒海山)細々と流れている。 
実は、新潟の日本海へ注ぐ阿賀野川は、下流部ではの河川水流量は日本最大級だそうである。


余り車の通らない国道を、純田舎の風景を堪能しながら駒止峠へ向かう。 
途中、所々に駒止湿原の案内表示が出ている。 
どうやら峠手前の針生の集落からルートが付いているらしく、こちらからだと20分程度の軽い山歩きで到達することができる。

 
駒止湿原は尾瀬ヶ原をギュット小さくしたような規模で、湿原の性質は殆ど同じ性格を持つという。 
南会津町と昭和村の間の標高1100mに位置する湿原で、三つの湿原がなり、(大谷地・白樺谷地・水無谷地)こちらも堂々と国の天然記念物に指定されていて尾瀬の陰に隠れたチョットした穴場の存在かもしれない。

尾瀬の標高が1500mあるのでシーズン開始はやや早く、5月上旬には雪解けが始まり、湿原に入ることができるようになるという。
こちらも湿性湿原特有の湿原植物の貴重な宝庫で水芭蕉をはじめ、ワタスゲ、リュウキンカ、ニッコウキスゲ、タテヤマリンドウ、ショウジョウバカマ、コオニユリ、エゾリンドウなど春から初夏にかけて次々と咲き乱れる。

特徴は三つの湿原からなっているが、駒止湿原でしか見ることのできない貴重なモリアオガエルの生息地域にもなっているという。

昔の駒止峠は、駒を止めるほど難所だったといわれる。 
燧ヶ岳、会津駒、浅草岳などが美しすぎて、駒を止めて一休みしたからとの説もある。 
ただ、駒止湿原が其の当時から知られていたかどうかは定かでない。


峠のトンネルを抜けるとこちらは南郷村である。
小生の手持ちの地図上では未だ南郷村であるが、当地は平成の大合併で2006年、南会津郡田島町・舘岩村・伊南村と合併して南会津町となっている。 

南郷村といえば九州の脊梁地といわれる日向宮崎の南郷村を思い起こす。 
無論、相当の山中、田舎であるが大陸(朝鮮・百済)の王が隠棲した地として有名なのである。
飛鳥期の7世紀、日本は朝鮮半島で百済の応援のため「白村江の戦い」(はくすきのえ)という戦いを起こし、唐と新羅の連合軍に大敗してしまう。 この時、百済の王族達は日本の各地を転々としながら最終的に落ち着いたのが、「南郷村」であったという。 日向南郷村の中心に百済王の御神体が祀った「神門(みかど)神社」や百済製装飾具が多数収蔵されている「西の正倉院」といわれる倉庫などが今でものこされているという。



気が付くとこの周辺には「」という名が付く町村が多い。
南郷村をはじめ、下郷村、西郷村、本郷町などである。 
(ごう、きょう、さと)というは元々、田舎または里を意味し、地方行政の単位(村の集合体)であった。
奈良時代に制定された律令制における地方行政の単位として、国、郡そして郷が置かれていて、現在の県、郡、村のよなものであろう。 
其の名残がと付く地名になったものであろう。 
会津若松を中心に見ると、下や西そして南の郷と付け、村や町にしたものであろう。 


それにしても小生の日本一周の旅でも気が付いていたが、日本の村がどんどん消滅しているのは寂しいことである。 
特に、近年の「平成の大合併」での市町村の数の推移を見ると、村の数が極端にへっているのが判る。 
因みに、昭和の大戦前後までには市数200、町数1,800、そして村数が9000に近い程あったが、2008年11月現在で市の数783、町の数806、そして「村の数」が193までになっていたのである。


次回、「村の意義



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東北紀行(125)田島 「会津西街道」

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 東北紀行(125)田島 「会津西街道」  ,




会津鉄道;「会津田島駅」


旧南会津郡役所(明治18年築、洋風2階建、昭和45年現在地に移築復原)


鴫山城址(会津の南部国境、中間防衛拠点として重要視された)



稲刈り後の黄金色に実った稲が、丸太を組んだ干し竿に干されていて、 田がとても美しく街道風景に色を添えている。
会津西街道、国道121号線は、次に南会津の主要地である「田島」に到った。 

国道から右の正面にある会津鉄道の「田島駅」へ所要のため寄ってみた。 
広い駅前にアーチ型の屋根を抱くモダンな駅舎は、チョット都会的なイメージで以外であった。 
先ほど通過した昔の農家を思わせる湯野上温泉駅とは対照的で面白い。


街道沿いは山中にも拘らず意外と賑やかな町並みである。 
気が付けば国道が四方向に交差し、会津鉄道が走る交通の要衝でもあった。
尤もで、田島は会津西街道の中央宿場町で、古来から交通の要所として重要視され、中世以降は会津四家の一つである長沼氏の居城・鴫山城(しぎやまじょう)の城下町として発展してきた。

田島は会津地方、会津藩の南の要であり、すぐ南の山王峠を越えると其処は関東・下野の国である。




国道の向こう側にはチョッとした町並みが広がっている。 その中に三角状の小山が鋭く立ち上がっている。 
街並みの一角には南会津の役所や簡易裁判所があり、その向こうには洒落た建物があって、旧会津郡役所とあり、原形どおりに復原されたものらしい。

小山は愛宕山というらしく、山頂にはに愛宕神社が祀ってある。 
愛宕神社は京都に本社をを持つ、古くから信仰されている火伏せ・防火に霊験のある神とされる。
NHK大河でお馴染みの「天地人・鴫山城址」(直江兼続の弟がこの地方を治めた)と記された幟が立っている。 

その鳥居をくぐった右手に説明板があり、そこから少し奥へ行くと、立派な空堀にカッコいい石垣がお出迎えしてくれる。 
ここが大門跡で、門跡の土塁上から眺めると、高さや深さが実感できチョットした感動ものである。



福島県指定史跡 鴫山城案内板

『 鴫山城は中世に南会津に君臨した長沼氏の本拠でした。戦国時代末に長沼氏は伊達政宗に属しますが、豊臣秀吉は会津を蒲生氏郷・上杉景勝領とし、鴫山城は若松城の有力支城となりました。江戸時代初めに廃城となり、今日に至っています。要はこの山城、傾斜地を階段状にたくみに造成して築城したもののようである。長沼氏とは中世鎌倉時代から室町・戦国時代にかけて田島を支配した一族である。 』


戦国期の天正18年(1590年)、秀吉の最後の大仕事でもあった「奥州仕置」によって、南会津を領有していた長沼氏は伊達氏に従って田島(当時は南山とも言った)を去り、鴫山城には蒲生氏郷の家臣・小倉孫作が6,300石で入城する。

その後、上杉氏時代は直江兼続(上杉景勝の執政)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原の戦い前後、徳川家康の攻撃に備えるために鴫山城の大改修をおこなっている。


直江兼続」は、越後の上杉景勝の重臣として仕えた戦国時代の武将だが、慶長5年(1600)の徳川家康の会津進攻に対する上杉氏の防御線として徳川との戦いに備えた。
兼続自身も会津城から西街道を下り、田島の鴫山城の改修状況を見聞しながら山王峠へ到って関東の状況を視察している。



会津田島は当時、材木や蝋燭(ろうそく)炭、そして隠れた重要な産物として「」が産出したともいわれる。 
拠点となる鴫山城の近くには金の鉱山がかつてあり、又、黒鉱と呼ばれる銀や銀を含んだ鉱石、石英、亜鉛、鉛など、南会津地方は重要な品目の産出地であったという。

次回、「南郷村



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東北紀行(124)大内 「大内宿と戊辰戦争」

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 東北紀行(124)大内 「大内宿と戊辰戦争」  ,



吉田松蔭」等が火を放った幕末革命は、いよいよ最終段階に差し掛かっていた。


会津戦争における南の関門ともいえる西街道筋、大内峠付近も緊張の度を増していた。
西軍(新政府軍)がいよいよ会津の鶴ヶ城を包囲し、日光口(会津西街道側)や三斗小屋口(会津中街道側)の藩境を守っていた会津軍には退却の命令が下る。 
会津城を包囲する西軍を後方から包囲するためだった。

しかし、その頃大内は西軍の薩摩藩・広島藩・佐賀藩を主力に九藩等が加わって攻め込んできたため形勢は不利になる。 

会津軍後退の時には大内宿は焼き払われる運命にあったが、当時の名主・阿部大五郎を先頭にした村人の必死の頼みで戦火を免れ、そのおかげで当時の宿駅の姿を今に残すことができたのであった。


因みに、日光口参謀として南会津での戦いを指揮していたのは軍監・薩摩藩士・中村半次郎(当時、「人切り半次郎」として異名をとり、新撰組を恐れさせたが明治元年頃、戦功により「桐野利秋」と改名している)であったと言う。
一行は、1968年(明治元年)9月1日に大内に到着し、会津若松攻略のための軍議を主催している。 その後、会津方面に侵出、会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務めている。


一方、土方歳三は参謀役として戊辰戦争のさなか慶応4年(1868年)に、今市から鬼怒川、川治を経て会津に向かい、宇都宮の戦いで負った傷を癒す為途中の川治温泉(怪我の川治、やけどの鬼怒川と当時言われていた)に逗留したとの記録が残っている。

戊辰戦争(1868年:戊辰の年)における土方歳三については先にも記したが、京・鳥羽伏見で敗戦となった幕府軍は関東へ引き上げ、再び北関東の宇都宮で決戦が行われる。 
土方はその参謀役として奮戦するが、やはり敗戦の憂き目を見ることになる。
決戦の最中、土方は敵の銃弾を受けて負傷しながらも、今市から鬼怒川、川治を経て会津に向かった。 
途中の川治温泉に逗留し傷を癒したという。

更に、次の戦いの場を求めて新撰組隊士の他、同じく負傷した旧幕軍幹部で会津藩出身の秋月登之助等とともに十数人で山王峠を越えて南会津の田島陣屋に到着した。
この後、土方は田島陣屋で秋月と別れ、大内宿、本郷を通り若松城下に到着することになる。

大内宿での土方の差配は定かでないが一旦、会津軍と合流した後、負傷している為と、元はといえば土方は客人であり応援部隊であったがため、この大内の宿で休養をとった後、会津軍が引き上げる前に若松へ向かったとも思える。

次回は 「会津西街道



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東北紀行(123)大内 「大内宿の幕末志士」

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 東北紀行(123)大内 「大内宿の幕末志士」   、




会津西街道(福島側では南山通り・下野街道)は、会津から今市までの約30里(約120km)で日光街道に通じ、会津~江戸の最短 ルートとして、会津にとっては白河街道とともに重要な街道だった。

因みに、会津へ通じる主要五街道は、「白河街道」、「二本松街道」、「越後街道」、「会津西街道(下野街道)」、「米沢街道」の街道である。
天正10年(1590)、かの豊臣秀吉の奥羽仕置を行うための会津遠征の時は、行きは白河街道であったが帰り道はこの大内の宿を通る会津西街道ルートだったという。


では、幕末及び戊辰戦争の頃の大内宿はどうだったんだろうか・・?



先ず、吉田松陰は江戸遊学中、幕末(1852年)に東北地方の見聞からの帰路会津から会津西街道の「大内宿」、その後、山王峠を越えて日光経由で江戸表へ出ている。
だが、松蔭が何時頃大内宿を訪ね、どの宿へ投宿したかは定かでない。

吉田松陰」については、小生、「日本周遊記」において山口県、長州・「萩」の項で記しているが、江戸末期、尊王攘夷論者で有名な「吉田松陰」は幕末革命の先駆者であった。 
だが、松陰が存命であったなら戊辰戦争や会津藩をどのように捉えただろうか・・?、いずれにしても、その後輩たちによって会津は「こっぴどいめ」あわされるのである・・!。


幕末の松蔭は、自国・長州萩を「脱藩」して江戸、そして東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
つまり、松蔭は細長い本州列島の西端から北端までを縦断しているのである。
その時の旅の様子を表したのが見聞記・「東北遊日記」である。
 


蛇足ながら、松蔭の「東北旅日記」の一端を記してみよう。

吉田松蔭は兵学修行のため長州から江戸に始めて訪れ、更に、本州の北端にまで遊学している。 
その時期はペリーが艦隊を率いて浦賀に現れる2年前の事であり、この時に松代藩の佐久間象山に師事している。 


松蔭の学問の主目的は、戦術や戦略であるが儒学や洋学をも学び、学問の本当の目的は「知識」ではなく「」を得る事にあると既に喝破している。 
松蔭の言葉に、「 井戸は、深く掘るか浅く掘るかは問題でなく、水の量が問題なのである、学問は一生ささげるべき対象であるが、道を得られたかどうかが問題なり 」、との思考が一貫していた。

 遊学中の江戸にて、数人の友人を得るが、20歳そこそこの松蔭が一番若く、他は皆先輩達であり、会話の中でも大概は「聞き役」であったという。 
友人達が松蔭を評するに「 いつも必要な事しか口にせず、一言発する時は必ず「温然和気、婦人好女の如し、是が松蔭の気迫の源なり 」と。


東北見聞旅行をしたのは江戸遊学の途、松蔭は21歳の時である。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談じ、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見聞することに真剣であった。 

疲れを知らぬ若さで、厳冬の時期にもかかわらず短い間に驚くほどの距離を踏破している。 
水戸、会津、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、平泉、仙台、米沢、日光などであり、松蔭は行く先々でその地域である国勢(藩勢)、地勢、人柄等を調べている。


最北の地・津軽を訪れた時、蝦夷・松前を望む海峡付近で、外国船が我が者顔に往来航行していた。 
攘夷思想家の松蔭は、「 何故こんなことが許されているのか・・! 」、 又、 竜飛崎近くのアイヌの集落では、日本人商人が彼等を牛馬並みの扱いをしているのを見て、人間味豊かな松蔭は、「 習慣や風俗が違っても同じ人間ではないのか・・」と、いずれも怒りを顕わにしている。


東北では関所を通るのに金が必要なのにも驚いていて、時折、理屈をこねて役人と喧嘩もしたが、米沢藩では入国者を調べはするが、金品は必要としなかったといい、「 さすがに東北を代表する雄藩と称することはある」と感心している。


その旅は苦労の連続であったが、安らぎの一時もあったらしい。
特に本州最北の地、津軽の十三潟(十三湖)を眼前にしたとき初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという。 
そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野が知恵や見識、勇気を与えてくれたことも察していたのである。

松蔭は、外国を含めた対外事情を見聞、経験するに従って、洞察力を見に付け「人は学識を広めてから旅をするというが一般的であるが、松蔭にしてみれば、「 旅をして学識を広める 」とも思えたのであろう。 

旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
記録によれば、江戸を出発(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─(会津西街道・大内宿)―今市─日光─足利─江戸(4月5日)。

江戸に戻ったのは嘉永5(1852)年4月5日であった。 


次回、「大内宿と戊辰戦争



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東北紀行(122)大内 「由来と宮様伝説」

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 東北紀行(122)大内 「由来と宮様伝説」  ,







大内宿



大内宿
は正式には「おおち」と発音するらしい。 
ただ、小生の出身は東北の「いわき」であることから、この地方・会津は東北訛りが更に強烈に浸透している地域である。 
標準語では「おおうち」であるが、実際は「おーうず」と聞こえるはずであり、「おおづ」が「おおち」になった可能性もある。


この「大内」の名を付されたのは、遠く平安末期の頃といわれる。 
伝説によれば、皇子・以仁王が都を追われ、越後国に落ち延びる途中、大内に立ち寄り、この里が都の風情に良く似ている所から、それまで山本村であったのが「大内村」に改められたという。 


単に「大内」といえば、皇居、皇宮、宮中、内裏など天子・天皇のお住まいを指すようであるが、この時、大内としたのは或は、内裏周辺の民衆の住まいや暮らしに似ていたのかもしれない。 
以仁王自身も、無論、内裏の人であった。   

以仁王(もちひとおう)は、横暴な平家に対して源氏が立ち上がるようハッパをかけた人物である。 途中、曲折はあったが結局、源平合戦が沸き起こり平家が滅んで源氏が武士の世を創りあげた。
つまり、この源平事変の最大の功労者でもあったのだ。


平家全盛の治承4年(1180)、後白河天皇の第2皇子(第三皇子であったが兄が仏門に入る)「高倉宮・以仁王(もちひとおう)は、皇位継承者として有力候補であった。
だが、平家一門の妨害に遭って阻止されたこともあり、尚且つ、専横を振るう平家に対して敵意を抱くようになる。 

そして、同調者・源頼政の勧めもあって諸国の源氏と脈を通じながら、正式に「令旨」(りょうじ:皇太子、親王および王・女院の命令を伝える文書)として源氏諸侯へ平家打倒の触れを出す。 

反平家勢を当てに自らも挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れ、頼政は討ち死に、高倉宮も討ち死にしたとされている。 
しかし、一部には高倉宮(以仁王)は行方不明になっていたという伝承もある。

以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、その影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、治承・寿永の乱(平氏政権に対する反乱)が起こり、正規の源平合戦への幕を開けることになる。



あの時、高倉宮・以仁王の屍体の確認が完全ではなかったらしく、伝承ではその場を逃れ、東海道から甲斐・信濃の山路を越え上野(群馬県)の沼田から尾瀬、桧枝岐に抜け、そして、ここ「大内」にたどり着いたことになっているという。

因みに、以仁王の臣下に「尾瀬三郎」(尾瀬三郎物語)という者がいて、彼は村人に“あの山の向こうに素晴らしい湿原や沼がある”ことを知らせ、初めて『尾瀬』という『尾瀬ヶ原や尾瀬沼』の場所を知ることになる。 
尚、尾瀬三郎は以仁王本人という説もあるとか・・?。


大内宿に一端落ち着いた以仁王は、その後、会津に入って、越後の八十里越を経て、吉ヶ平から、刈羽郡小国町に落ち着いたという。
この時、高倉宮には桜木姫というの愛妾がいて、高倉宮を慕い、後を追って大内にたどり着いたが、長い苦労の旅により倒れ18歳の若さで、ここ大内で病死したと言われている。 

村人はその死をはかなんで、村はずれに墓を建てて供養した。
この墓周辺は今でも主君に仕える人が眠る原ということで、御側原(おそばはら)と言われているという。
又、南北に通る大内宿の西側には、高倉神社が祀られている。

これは平清盛に反旗を翻し、宇治川の戦いで敗れた高倉宮以仁王を祭神とする神社であり、この付近一帯の鎮守社でもあるという。 

毎年7月2日には高倉宮を祀る「半夏(はんげ)祭り」が行われている。 
祭礼当日には、同時に桜木姫を祀る桜木姫霊社に注連(しめなわ)が張られ、同格に祭られるという。
祭礼は数百年の間、山間の大内宿で行われてきたといい、この事実は神霊である高倉宮・以仁王を敬う強い信仰の表れでもあるといえる。

次回、大内宿の幕末志士



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東北紀行(121)大内 「大内宿の紹介者」

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 東北紀行(121)大内 「大内宿の紹介者」  ,



それにしてもである・・
日本は明治以降、近代化の波を受けて旧来の考え方や物質文化が蔓延ってきて、道路や鉄道といった公共機関から、おのずと個人の生活もより良い方向へと便利さを求めた。 

大内周辺でも、すぐ横に幹線道路が新しく敷かれて、人の往来も頻繁になり、近くの温泉宿で身を癒すほどに社会的に余裕も出てきている。


しかし、「大内村」は、そんな世の中の急変している時代に気が付いていても、平然として江戸時代の暮らしを続けていたのである。
この大内村の時代を超越した生き方や暮らしぶり、更には変わらぬ建築物や町並みを、外部の人によって見出され、これらのことを世に問うたのであった。 
それは先ず、外人の旅行家によって紹介されていた。

イザベラ・バード」というイギリスの女性旅行家、紀行作家で、明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(日本での題名:『日本奥地紀行』、『バード 日本紀行』)などに「会津・越後を歩く」として詳しく書かれているらしい。 


イザベラ・バードは日本各地を訪れているが、特に「日光」が気に入ったらしく10日以上滞在している。 
中禅寺湖、男体山、華厳滝から奥日光の湯滝、湯元湖などを闊達に描写し絶賛している。 湯元温泉では湯治場や湯治客にいへんな関心を示し、その様子を詳らかに記している。


バード一行は、この後いよいよ外国人がかつて誰も訪れたことの無い地方に入る。
南会津町から船で大川(阿賀野川)を渡った一行は大内宿で宿泊する。 

大内の宿泊所は「美濃屋」という大きな農家で、江戸時代の大名の宿泊所でもあったらしい、所謂、本陣であった。 因みに、この美濃屋は明治以降は、郵便局や運送所も兼ねていたという。

彼女は、この時の大内村の様子を、西欧の影響を全く受けていない地方の生活様式や日本人の暮らしを母国である故郷に手紙で知らせている。 
この中から、当時の日本人がおおらかで文明化に向けて希望を持っている様子が見えるという。


又、近年になって、日本を代表する民俗学者の一人である「宮本常一」氏によって、現在の大内宿が紹介されている。
彼は生涯において、丹念に日本中を歩き、村の暮らしの話を採集した人であり、三十三巻の著作集を残している。
明治後、大内宿は明治のある時期に他に道路ができたため、山間で孤立してしまった。 
大概の宿場は文明開化の名の下で廃れてゆく中、それでもなお村の旧観が残ったというのは、奇跡に近い。そのことについて、この宿の人々をたたえている。


宮本氏は・・、
村人の結束もかたい上に、特別に大きな財産家もない。村人を出し抜いて自分だけはよい生活をしようとするような人もいなかったことが、このような村を残したのであろう。」
それにしても、この大内の人々は、見上げたものと言わざるを得ない。 江戸時代が去り、もはや参勤交代の行列がやってこなくなっても、さらには新街道が別の方について山間に捨てられてしまっても、住居や村を変えようとしなかったと言うのは、遠い昔からの日本人の心だったというべきだろう。」(宮本常一著作集 1989年)



そして、「街道をゆく」を著した司馬遼太郎が大内宿を訪問しているが、大内宿の印象を以下のように述べている。 
「 大内の小盆地に入ったとき、景色のすがすがしさにおどろいた。 まわりを、標高千メートルほどの峰々がかこんでいる。 北に六石岳、東に小野岳、西に烏帽子岳、神籠ヶ岳などといった山々で、私どもは南から入った。 大内という在所だけが、うそのように平坦だった。 そのなかにひと筋の古街道がとおっていて、その古街道の両脇に、大型の草ぶきの屋敷が、幾棟も幾棟も、棟をむきあわせてならんでいるのである。 (中略) 江戸時代そのままのたたずまいだった。 残っていつ規模が大きく、戸数五十四戸が、整然とならんでおり、どの家もよく手入れされている。 たったいま会津若松城下から、松平候の参勤交代の行列が入ってきても、すこしもおかしくない。 」 

同宿場は「重要伝統的建物群保存地区」に選定されている。


重要伝統的建造物群保存地区選定基準として・・、 
(一) 伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
(二) 伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
(三) 伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
この内、大内宿は(三)の選定基準に当てはまるものとして昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

次回、「大内宿の伝説



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東北紀行(120)芦の牧 「湯野上温泉と大内宿」

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 東北紀行(120)芦の牧 「湯野上温泉と大内宿」  ,





大内宿の民家を模して造作された東北の駅舎百選の「湯野上駅」




会津街道を南下すると芦の牧温泉、湯野上温泉が現われる。

芦の牧温泉」は東山温泉と同様に古くから開けていた温泉場で、阿賀野川沿いに旅館やホテルが20軒ほど建ち、今では東山温泉と同格ぐらいに賑わっている。
ただ、明治初期の頃までは近郷の人々の療養の場のみであったらしく、今の会津街道などは未だ開通してなく従ってドン詰まりところで、当時は袋小路の様な奥に位置する「幻の温泉村」だったとも言われる。


又、近隣の「湯野上温泉」も昔は芦の牧温泉同様、盲腸のような道路にあって近郷の村人たちが利用するだけの鄙びた温泉場であったという。  
今では芦の牧温泉を一回り小さくしたような温泉場であるが、国道沿いで、しかも人気の「大内の宿」にも至近ということで人気がある。 


特に、会津線・湯野上温泉駅舎が日本では唯一つ、田舎風の茅葺屋根の造りということで意外な人気があるらしい。 
大内宿の街並みになぞらえた茅葺屋根の駅舎を有するとして、2002年(平成14年)、東北の駅百選に選定された。 

又、2005年度の日本鉄道賞特別賞を授与されている。
両温泉場とも、近隣の人が利用するのみの温泉であったが、明治35年に道路が開通したことにより温泉地としての発展を見せていった。


その湯野上温泉から最も近距離にある「大内宿」には、歴史に興味をもつ小生も2度ばかり訪れている。 

この地は正に異郷の地であった。
山間の地にあって江戸時代の集落そのもが整然として軒を並んでいるのである。
それは南信州の奈良井の宿や妻籠の宿とは比べても、更に、一昔前の雰囲気を醸しだしているのである。

しかも、奈良井も妻籠も古代より東国と西国を結ぶ大幹線道路の一つである中山道の宿場町として機能してきた。 
だが、大内宿は東北の田舎の山の中で、道の両脇には堀の水が流れ、全長約450mの街道に沿って、道の両側に50軒の寄棟造、茅葺の民家群がほぼ等間隔に建ち並んでいる。 
今にも参勤交代が通りそうな雰囲気であり、どうしてこれ程の江戸の町並みを温存することが出来たのか・・?、 


今でこそ下野・日光から奥州・会津へは会津西街道つまり、国道121号線が貫通しているが、明治中期頃までは下郷町楢原から先は、倉谷、中山(中山峠)、そして大内を通って会津へ達したのであり、先に述べた湯野上温泉方面は細々と村道が通っていたに過ぎず、芦の牧温泉はそのドン詰まりであったのだ。

大内を通る街道は、本来の会津西街道(南山通り)、 あるいは下野街道と呼ばれ城下町会津若松と栃木県今市・日光を結ぶ重要な街道であった。 
大内峠を越えると間もなく会津の城下に達する。

その大内峠の手前に大内の宿があり、会津へ向かう最後の宿場町として栄えたのであった。
江戸時代の宿場の面影を今に残す村・大内宿は全国でも数少ない貴重な集落として知られる。 

この村を通る旅人や南会津郡の産物を若松や関東に輸送したり、庶民が関東への出稼ぎや西国への神社詣等にも使っていたとされる。
又、会津藩主の参勤交代の大名行列も、旅の疲れをこの宿場で癒していたという。

次回、更に「大内宿



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東北紀行(119)会津 「家康、会津へ進軍」

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 東北紀行(119)会津 「家康、会津へ進軍」  .




この直江状が家康の下に届けられたのは、慶長5年(1600年)5月3日であった。
家康はこの書状を受け取って激怒しながらも、内心ではむしろ喜び、そして同日の内に上杉景勝征伐、つまり会津攻めを決意したという。

6月6日には大坂城西の丸において会津攻めにおける評定が開かれ、家康が軍を纏めて会津攻めに向けて大坂城より出陣するのは、凡そ1ヵ月後の6月16日である。
会津攻めの先鋒には福島正則、細川忠興、加藤嘉明など秀吉恩顧の大名諸氏が任じられた。


家康は余裕を見せつけるが如く、遅々とした進軍を続けた。
7月17日には江戸城、7月19日に入って徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣する。 
家康自身は7月21日に入って、江戸城から出陣して会津に向かう。
そして7月24日、家康が下野国小山に入ったとき、鳥居元忠の急使により石田三成ら反家康派の挙兵を知った。


三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐の中止を宣言、直ちに「小山評定」といわれる会議を開き、上杉景勝に対しては結城秀康の軍勢を押さえとして残し、自らは反転西上して三成らの討伐に向かった。


一方の景勝もこれを受けて一旦安堵しながらも、後顧の憂いを絶つため出羽の最上義光を攻略することに方針を転換する(慶長出羽合戦)。
従って、徳川軍と上杉軍が直接対決することは無かったのである。


因みに、秀吉が戦国期の総決算として東北地方の仕置をしたのが小山のほんの先の宇都宮で、「宇都宮評定」と云われている。
その時、宇都宮での秀吉の悠々満顔の心境に対して、小山における家康の心中不穏の心境の対比が興味深い。

次回、「芦の牧、湯野上温泉と大内宿




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東北紀行(118)会津 「向羽黒山城 」

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 東北紀行(118)会津 「向羽黒山城 」   , 




阿賀野川沿いに望める岩崎山(標高408m 旧向羽黒山城跡)



東山温泉での一夜が明けた。
さて、本日の行動予定は好天なら南会津から尾瀬の沼山峠で、尾瀬の紅葉風景を堪能しようと思ったが、しかし、生憎の曇曜日(ドン曜日)で、今に落ちてきそうな陰鬱な様気であったので・・?。

天候の様子を見ながらであるが、先ずは南会津の山間地をドライブ気分で出立した。
白亜の鶴ヶ城をすぐ左横に見ながら、国道118号線、通称、会津西街道を南下する。
間もなく会津美里町本郷に差し掛かると大川(阿賀野川)越にポッカリと標高400m程の小高い山が見て取れる。
この山こそ東北でも1,2を争うほどの豪快な山城・「向羽黒山城」の城址である。(平成13年、国史跡指定)


会津若松は戊辰戦争以前にも大きな危機が訪れていた。 
それは戦国末期における会津上杉と徳川家康との決戦であった。

上杉景勝が秀吉から120万石を賜って会津の太守になって間もない時期に秀吉は亡くなる。
家康は秀吉の遺言(豊臣政権下、奉行、大老は秀頼公の補佐に当ること)にもかかわらず、専横的で傍若無人な態度を示すようになる。
上杉家にも圧力をかけてきて、大阪城へ登城して臣下としての礼を尽くすようにとの催促状が届く。 
これに対する返答が、かの有名な「直江状」であり、これは会津で書かれたものといわれる。

家康の詰問状に対する直江兼続返答書(直江状):長文の要旨
『 上杉家は、おととし国替えして会津に来たばかり。国替え直後に上洛して、それで9月にようやく帰れたと思ったら、また1月には上洛しろって言われても。それなら、いつ領国の政務を行えばいいんですか? それに、なにぶん会津は雪国でしてね、10月~2月までは何もできません。 出身の人に確認してもいいですよ(マジですから)。」
「それに、上杉家が謀反というなら、まずはそれを訴え出た者に追求していただきたい。それができないのであれば、実は家康様こそが謀反を企んでるんじゃないですか・・?
 』

家康に一歩も引かない姿勢を示し、逆に家康を挑発するような、16ヵ条からなる返答書を送りつけ、家康を激怒逆上させている。 
そして、このことが会津征伐の口実を作ったのであった。 
1600年、徳川家康は豊臣秀頼の名のもとに上杉景勝討伐を決める。


一方、直江兼続は、早々に家康軍を迎え撃つ準備を始める。
徳川家康の会津攻撃の報を聞くや、景勝・兼続は、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考え大改築を行ったとされる。 
会津で東北の関ヶ原が行われていれば、向羽黒山城は最も重要な砦となりえる山城であった。

築城には直江兼続が総指揮となり、本丸は家臣団で築城し、堀と石垣・門まで築いた。
天守閣は本丸北西に築き、二の丸は家臣と領民8万もしくは12万ともいわれる人数を動員したとされる。 
面積は鶴ヶ城の2倍、家臣団の屋敷は鶴ヶ城外郭の2倍、500ヘクタールに及ぶものであった。 
それには13の村を移転したとの記録もあるという。

二の丸跡の北東角である鬼門には、御神木となる国天然記念物(樹齢600年、築城200年前よりあり)の「高瀬の大木」といわれるケヤキの木がある。

次回、「家康の会津進軍



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東北紀行(117)会津 「秀吉の会津遠征」

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 東北紀行(117)会津 「秀吉の会津遠征」   



因みに、「豊臣秀吉」はが会津に入ったことは余り知られていない。 

これも幕末維新の大戦争による記憶が余りにも深く大きくて、それ以前の史的産物は陰が薄くなってしまったのかもしれない。 
しかし、会津若松の整然とした町並みはこの時から起こったとされている


秀吉は戦国時代の総決算、全国の統一として、最後に奥州の仕置(領地の配分や管理手法を決める)を行う。 
これは東北地方における一大事件であり、大革命であったとされている。
会津への巡察行軍は、宇都宮を発って再び帰城するまでの10日間の日数であった。


天正18年(1590年)、小田原城を陥落し北条氏を討った秀吉は、応仁の乱以来100年余り続いた戦乱に終止符をうち天下を統一した。
その後、東北地方を支配するため自ら伊達正宗の本拠だった黒川(若松)に入り、奥州仕置に着手した。

このことは、奥州支配にあたって関東につながる会津がいかに重要な地であったかを示すもので、腹心・蒲生氏郷を会津に配置した。
これは、400年前に頼朝が関東武士に分割支配させて以来の大変革であり、「 闘わずして奥州を手に入れる 」といった秀吉の言葉は、そのまま実現して同時に天下統一は完成した。

会津においては、天正18年(1590年)、秀吉による奥州検地の命令によりきびしい検地が行われ、福島地方を浅野長政、会津地方を豊臣秀次、白河地方を宇喜多秀家など、当時のそうそうたる武将が奉行を務めたという。
しかし、この検地には農民の強い反発がもり、この時の農民一揆で63人が首がはねられたという大事が発生した。 
これは、赤岡村(現在の南会津郡下郷町)にあった事件で、県の史上最も厳しい弾圧であったともいわれる。


会津若松市東山町の背あぶり山の頂に「関白平」と呼ばれる標高約800mの高原がある。 
秀吉はこの山頂に立って、会津盆地を一望しながら東北の仕置を考えていたのかもしれない。
実際、宇都宮へ帰城してから「宇都宮評定」といわれる席上で、東北の仕置を命じている。

関白平の名は、昭和に入ってから付けられた名前らしいが、関白秀吉は天下人として、新たに手に入れた領土を家臣に見せ、力を誇示するために一望できるこの場所を選んでともいわれている。

その、「背あぶり山」の麓に東山温泉があり、当然ながら秀吉一行(一行は凡そ3,000人とも言われる)はその帰路、共々、東山温泉にて英気を養ったであろう。 
当時の温泉関係者の慌てふためく狂騒振りが想像できる。


会津は、秀吉の命(宇都宮評定)によって「蒲生氏郷」に領地の運営を任されることになる。
氏郷は織田信長に仕える近江国(滋賀県)蒲生郡日野城の領主で、信長の死後、豊臣秀吉の家臣となっていた。 
数々の戦功をあげた人物で、秀吉にその優れた能力を認められ、東北地方を支配するのに重要な地だった「会津」を任された。 

氏郷は1593年(文禄2年)、会津に入ると大きな天守閣を持つ城を築き「鶴ヶ城」(つるがじょう)と名づけ、城下町を整備し産業の振興を図る。 
氏郷は更に、黒川の地名を「若松」と改名する。 
これは氏郷の故郷・近江国(滋賀県)蒲生郡の「若松の森」にちなんだと言われている。

又、雑然としていた城下を整備、拡張に着手、城の周りに侍屋敷を配しその外側に土手(外郭)を築き城を中心に、郭内・郭外に分割する。 
それまで郭内にあった町人屋敷を郭外に移し、町の北側に多くの寺院を移築し城下の整備をする。 

検地によれば、氏郷の領地は91万9,320石となり、徳川家康・毛利輝元に次ぐ全国で3番目の大大名になっていた。
この町割りは、現在の市街地の原型になっていて、今でも市内のいたるところでその名残を目にすることができえう。 郭外の町域は大町・馬場町・本郷町・三日町・桂林寺町・六日町等である。

1593(文禄2年)、七層の天守閣を持つ「鶴ヶ城」が完成する。 
その威容は会津盆地を圧し、若松は「奥州の都」とうたわれるほど繁栄するようになったという。

次回、「向羽黒山城



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東北紀行(116)東山温泉 「温泉と著名人」

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  東北紀行(116)東山温泉 「温泉と著名人」    、 



東山温泉は、「鶴ヶ城」から南東に僅か約3kmの地、清流・湯川沿いに温泉宿・ホテル計20軒以上が営業している。 
湯量は毎分1,500リットルの湧出があるとされ、バリバリの温泉地である。

会津藩・松平家の別荘から発祥した「新滝」、会津藩指定保養所の歴史を持つ「向瀧」、新撰組副長・土方歳三が戦傷を癒した源泉を持ち、開湯当初からの湯宿とされる「不動滝」(土方の入湯については幾つか伝承がある)など、特性のある旅館が多い。

上山温泉、湯野浜温泉と東山温泉で奥羽三楽郷の一つとも言われ、開湯は八世紀後半、又は天平年間に行基によってなされたと伝えられ、当初は「天寧温泉」(温泉街の入り口に蘆名氏の菩提寺・天寧寺がある;同系の寺院は蘆名氏転封先の角館にもあえる)とも言われたという。
古くは豊臣秀吉や新選組副長土方歳三らが訪れ、又、竹久夢二、与謝野晶子等、多くの文人にも愛されたという。 


元より、豊臣秀吉(太閤秀吉)は温泉好きで知られる。 
京・大阪の奥座敷とも言われる「有馬温泉」には豪華な別荘「湯山御殿」を建てさせ、専用の「太閤風呂」を造らせている。 

更に戦乱の影響で衰退していた有馬温泉に手厚い保護と援助を行い、再興に努め、歴史と伝統のある温泉を復興させて天下人としての器量を見せている。


近世、松平23万石の城下町として栄えた会津藩は、藩租から屈強な武士道を鍛え上げ、「忠と孝」のもとに散っていた会津武士達も、一時は当地温泉でゆっくり身体を癒し、時を過ごしたのかもしれない。

泉質は「硫酸塩泉(カルシウム・ナトリウムー硫酸塩泉・塩化物温泉)」で、PH値は8.0の弱アルカリ性、特にリウマチや皮膚病に効能があるという。

次回、「秀吉の会津遠征



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東北紀行(115)東山温泉 「東山温泉街」

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 東北紀行(115)東山温泉 「東山温泉街」   , 





写真:東山温泉、「千代滝」の屋上展望風呂



「新滝」の何れの温泉浴槽も泉質はほぼ同じようなものであったが、いやはや異なる六種類の浴槽の雰囲気を満喫して、泊まり宿である「千代滝」へ戻った。 

部屋へ案内されて窓を開けると、すぐ山間に会津東山温泉街が一望できる。
今度はこちらの温泉入浴である。


屋上階にある浴室は大きな内湯と露天風呂と二箇所あり、入浴中は山々しか見れないが、立ちあがると会津若松市内と東山温泉街を眼下に見ることができる。 
そして尚、湯船を乗越して前にある非常階段のところまで歩み寄ると、若松城下の煌く明かりが一層鮮明に見下ろすことができるのである。  
なるほど、ホテルが絶景展望の露天風呂と称しているのには頷ける。


「千代滝」と姉妹館の「新滝」の宿泊客は、お互いの宿のお風呂に湯巡りできるようだが、やはり温泉入浴に関しては歴史のある「新滝」の方が一枚も二枚も上のようである。 
ただ、湯めぐり可能なのは制限時間があるらしく、午後は15時から22時と午前は早朝から午前10時迄らしい。

何れにしても若年の砌(みぎり)ならいざ知らず、年配の域に達した小生などは、余り温泉にばかり浸かると「湯疲れ」を起こす恐れもあり、このあたりが限度であろう。









東山温泉街(ホテルの部屋と湯川からの眺め)



東山温泉の中央を流れる「湯川」は上流に東山ダムを控え、その上部も湯川渓谷といわれる豊かな自然が広がり、奇岩や幾つもの大小の滝が連続する。

この温泉地には「千代滝」、「新滝」を初め「向滝」、「原滝別館・今昔亭」、「原滝本館」、「不動滝旅館 」、そして「庄助の宿・滝の湯」と、「滝」が付く宿が多い。 
因みに、「庄助の宿・・」は、小原庄助さん縁(ゆかり)の宿という謳い文句で、有名な会津地方の民謡、盆踊り唄となっている「会津磐梯山」に登場する人物である。


会津磐梯山』 福島県民謡

エンヤー)会津磐梯山は宝の(コリャ)山よ
笹に黄金が(エーマタ)なりさがる 
 
エンヤー)東山から日にちの(コリャ)便り
行かざなるまい(エーマタ)顔見せに
『おはら庄助さん なんで身上(しんしょう)つぶした。朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした。ハァもっともだ もっともだ』

朝寝・朝酒・朝湯好きで財産をつぶしたという「小原庄助」のことで、戊辰戦争で戦死した会津藩士などの説もあるが、しかし、実際については不明だともいう。


「会津磐梯山」の民謡に併せて、毎年お盆の時期の8月13日頃から一週間程度、開湯伝承を持つ老舗の旅館「不動滝」の前に櫓を組み、「東山盆踊り」が開かれる。 

踊り手は旅館の宿泊客や近郷近在から集まり、鐘と太鼓や笛が賑やかに奏でる中、色よい芸者さんたちが櫓の上で歌う。 
数日間行われる祭りの目玉は、サラシを巻き半被(はっぴ)姿の芸者さんが神輿の上に乗って、観光客等が温泉の手桶を使ってお湯かけるという、少し色っぽいお湯かけ夏祭りで盛り上げるという。

次回、東山温泉の著名人



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東北紀行(114)東山温泉 「土方歳三、療養の湯」

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 東北紀行(114)東山温泉 「土方歳三、療養の湯」   、 















新滝旅館の各浴槽、上より岩場の湯 大理石の湯 露天風呂




次に、新滝旅館の玄関横の「千年の湯」に向かってみた。
階段を下りて浴室へ向かうと突き当たり右側が男性用になっていて、左は女性用らしい。 
因みに、日のよって男女用が入れ替わるという。

千年の湯は、天然の温泉自噴岩盤をそのまま生かしたという豪快な浴槽で、四角い二つの浴槽の底からは僅かに自噴しているのが判る。 
一方、隣の浴槽は豪華な大理石風呂である。 次には東山を流れる湯川に面した大きな露天風呂で、渓流のせせらぎを聞きながらの入浴である。 
大自然に身を任せ、季節の移ろいを感じながら情緒ある東山の風景を独り占めできる温泉であろう。

戊辰戦争の折には療養中の土方歳三も訪れ、当時の岩風呂から川に飛び込んだという逸話が伝えられているという。(詳しく後ほど) 
隣の「不動滝旅館」に泊まって温泉療養したとされ、本館外壁には巨大な土方歳三の画像が示してある。
土方歳三は、無論、会津藩士ではなく京における新撰組の副長であった。




土方歳三が入湯したとされる浴槽跡



ところで、会津戦争は明治維新における戊辰戦争の最後の戦いと思われるが、実は最北の地・蝦夷函館において最後の決戦が行われていた。 
この戦いに土方歳三は参戦し、壮烈な最期を遂げていたのであった。

土方歳三は、幕末 (1863年)において近藤勇らと共に上洛し、京都守護職会津藩主(松平容保)お預りとして不逞浪士の取り調べ、市中見廻りを行なっていた。 
慶応4年(1868;明治元年)鳥羽・伏見の戦に敗れた歳三は、新選組の生き残りを率いて北関東、会津と転戦した。

戊辰戦争も終盤の慶応4年、官軍が「会津」へ殺到、一か月に及ぶ籠城戦となるも歳三は母成峠の戦いに敗戦し、籠城のための入城に遅れた土方は開陽丸で北上してきた榎本武揚と共に仙台で合流する。 
その後、榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸している。


新撰組の土方歳三、奮戦ス・・!!、

新撰組副隊長の土方歳三が戦死したとされる場所は、現在の函館駅近くの若松町辺りとされている。 敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『 我この柵にありて、もし退く者を斬る・・! 』と発したという。


函館戦争の敗戦後、旧幕府軍である榎本軍の幹部は概ね明治新政府の要職に付いている。
その中で自ら死地前線に赴き戦死したのは「土方歳三」ただ一人であったという。

土方は、120人前後となった新選組と共に、榎本艦隊で仙台から蝦夷地へと向かった。 
約2500名の脱走軍は函館城(五稜郭)に無血入城し、12月には蝦夷地平定を完了し、「蝦夷共和国政府」を樹立した。 

熊石まで渡島半島の南端海岸線を巡っている。
土方は、新政府軍が函館総攻撃を開始する頃、敗色濃厚となっても新選組や前線兵士を救うため、僅か80人を従え騎馬で出陣し、元より死を覚悟しての陣頭であった。 

降伏戦死の後、土方の遺体は僚友・安富才助(新選組隊士、馬術師範)らにより五稜郭に運ばれ、埋葬されたという。 享年35歳の若さであった。

次回、再び「東山温泉・千代滝」




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東北紀行(113)東山温泉 「千代滝、新滝」

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 東北紀行(113)東山温泉 「千代滝、新滝」  , 




夕刻も迫り、東山温泉の「千代滝旅館」へ急いだ。

東山温泉は十代の頃より数度訪れたことがある。 
城下・若松の奥座敷として当時は人出も多く、建物も煌びやかで相当に賑わっていた記憶がある。 
夏のお盆の時期になると、湯の川を挟んで笛や太鼓による民謡・会津磐梯山の唄と共に踊り狂ったものであった。

今は、時代の趨勢もあってチョット落ち着きすぎた町並み風情に変わったような気がしたが・・?。




千代滝旅館



千代滝旅館は、向かうと左手に高台にあり、温泉街が一望できそうである。 
そういえばこちらの温泉浴場の目玉は屋上の展望風呂にあるらしい。
只今の時間は夕刻5時であった。 

ただ、こちらの入館入室時間は夕刻6時という条件付で、そのかわり通常より何割か割引き値あったはずだ。
旅館側に言わせれば、「 せっかく見所いっぱいの会津に来たのだから、ゆっくり観光を楽しみたい 」という気遣いでもあったのだろう。 

確かに、会津は一日では回りきれない程名所や観光スポットが満載である。 
歴史ある会津の様々な名所を回り、そして夜は通常よりも手頃な価格で宿泊できることは利用客としても有難い。



時間に余裕があるので、姉妹館の「新滝」の入浴を楽しむことにした。
こちらは本館(千代滝)と違って、温泉街の中にあり、湯の川の洒落た造りの先心橋を渡った先にあった。 

こちらも千代滝以上にホテル風の旅館である。
年配者風の案内係りに・・、

「千代滝から来たんだけどお風呂入らして、 それと車ここでいいかね」、 
「はい・・、源泉掛け流しのいい風呂だから、ゆっくり入ってきな」、

と気さくな返事が返ってきた。


豪華なつくりの玄関を入ると正面に受付フロンとあり、左手にガラス張りの大きなロビーが広がっていた。 
何でも歴史ある新滝旅館は、今年(2010年)リニューアルされたばかりどという。

温泉は玄関より右の廊下越にあるらしい。 廊下の入り口に早速「千年の湯」というのがあったが、これは後ほどの楽しみとして奥の方にもあるらしく、先ずそちらの浴槽へ向かった。






写真:新滝橋と新滝旅館




新滝旅館の「猿湯」 


わたり湯」、「殿猿の湯」(女性は姫猿の湯)そしてやや小さめながら露天風呂で妙な名前の「月取り猿の湯」のがあった。 モダンな殿猿の湯と木造りで湯治場の古風な浴槽との対比がいい。 
何れも広い窓によって表現されており開放感がいい。

木造り主材はヒバの木で、木造浴槽としては最高品といわれる。 
ヒバは国内では青森など緯北地域が特産とされ、材質的には殺菌効果、防虫効果、防腐・防湿効果、消臭・脱臭効果などの特殊な効果があるとされる。 
一昔までは神社や仏閣、お城などの建築に大いに利用されたらしい。

温泉は無味無臭で透明感があり、肌触りはさらりとして、小生にとっては温めの適温で、のんびりと入れるのがいい。

豊富な湯量の自家自噴泉は、日本温泉遺産を守る会により「温泉遺産」の認定を受けていて、古くは川の脇の素朴な湯治場として会津藩士に親しまれたという。

更に、「東山温泉



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東北紀行(112)会津 「徳一と振興仏教」




 東北紀行(112)会津 「徳一と振興仏教」   、 



磐梯山・恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部か、又は、其の数倍の境内とするほど広大な敷地を有し、興隆をきわめた。 
無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 

当初は磐梯山の噴火等、恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いた。 
今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っていて、広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 

慧日寺」は、磐梯信仰の中心・磐梯神社との神仏習合の一大聖地であった。



ところで、仏教界で大きく飛躍するのは奈良から平安にかけてで、特に、新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 

従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。


その時期、徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 
当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。


最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 
徳一は、その最澄に反撃を加えて5年間にわたる理論闘争・「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん:仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 

最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。


一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 

会津において磐梯慧日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている。
『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。 初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重・・・』
 

ところが、徳一と論争を交わして東北進出を阻止されたのは最澄であったが、この最澄の弟子が東北進出を果たすのである。 

慈覚大師・円仁である。 


小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら有名仏閣の開祖である。

坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があるともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 

円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 
円仁」は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。


徳一」の偉大で、且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に努めた大人物であった。 
其の中で、徳一には東北布教活動において、中央政権下の藤原氏の強力な支援があったともいわれ、そのことは藤原氏自身の東北進出にも繋がっていき、このことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。

会津地方の人々は、この遥かな昔の偉人・藤原徳一の善にして強力な精神力が、知らず知らずの内に引き継がれていたのかもしれない。

次回、「東山温泉



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安芸の宮島・厳島神社・・  
石見銀山遺跡とその文化的景観・・ 

ハワイ旅行2007・・
沖縄旅行2008・・
北海道道北旅行・・
北海道旅行2005・・
南紀旅行2002・・

【山行記】・・・
《山の紀行・記録集》・・・

「山行リスト」 ・・
白馬連峰登頂記(2004・8月)・・
八ヶ岳(1966年)・・
南ア・北岳(1969年)・・
北ア・槍-穂高(1968年)・・
谷川岳(1967年)・・
丹沢山(1969年)・・
西丹沢・大室山(1969年)・・
八ヶ岳越年登山(1969年)・・
西丹沢・檜洞丸(1970年)・・
丹沢、山迷記(1970年)・・
上高地・明神(2008年)・・

《山のエッセイ》・・・
「上高地雑感」・・
「上越国境・谷川岳」・・
「丹沢山塊」・・
「大菩薩峠」・・

《スキーの記録》・・・
「スキー履歴」・・  

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