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東北紀行(108)会津 「慧日寺の古縁起」

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 東北紀行(108)会津 「慧日寺の古縁起」  ,


先ずは、小生の故郷でもある同じ東北の石城地方について・・! 。

石城は古くからは関東圏に内包され、東北地方ではもっとも早く開発されて、大和朝廷化した地域であることは確かとされている。 

弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると、石城地方がある時期、東北地方でもっとも豊かであったらしい。 
季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


東北南部は、蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(平城京)へ向かおうとした地域とされている。 
だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断され、更に蝦夷の動乱は田村麻呂によって悉く阻止されている。 

朝廷の東北進出は初め武力が主であったが、経営的には文化の両面からも行なわれたとされ、その文化の面では特に「宗教」に力を入れたのではないかと思われるのである。


飛鳥初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の詔が出されるまでに到る。 
後に、布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は仏教教化の重要な拠点であったのではないかとも言われ、その中の一人に「藤原徳一」という名僧がいたことは史実でも明らかにされている。


徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男と伝えられている。 

初め東大寺や興福寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下った。
新興宗教の空海とも相容れず、最澄との間で一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)を展開したことは有名である。 
この間、常陸国筑波山、陸奥国会津など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。



大和の三輪山  、

我が家の実家(いわき湯本)から徒歩で10分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。
 
徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 
それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる。 
古来、湯の岳は地元民衆の根本的な信仰の拠り所であった。

徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。
この山全体が徳一観音信仰の霊場と決め、 修行に勤しんだのかもしれない。 

徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。



奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 
神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。
日本において神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称した。
そこで三輪神社の神宮寺は、大神寺、通称、大御輪寺であった。

三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。
神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになった。 
さらに日本全土を大和と呼び習わすようになったといわれる。 

大和朝廷の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代天皇家の地となった。

これら大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 

「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。
ここで現われたのが高僧・藤原徳一であり、徳一は宗教文化普及のため蝦夷(えみし)の国・東北に出向いたのであった。


次回、「高僧・藤原徳一



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