スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

東北紀行(123)大内 「大内宿の幕末志士」

.


 東北紀行(123)大内 「大内宿の幕末志士」   、




会津西街道(福島側では南山通り・下野街道)は、会津から今市までの約30里(約120km)で日光街道に通じ、会津~江戸の最短 ルートとして、会津にとっては白河街道とともに重要な街道だった。

因みに、会津へ通じる主要五街道は、「白河街道」、「二本松街道」、「越後街道」、「会津西街道(下野街道)」、「米沢街道」の街道である。
天正10年(1590)、かの豊臣秀吉の奥羽仕置を行うための会津遠征の時は、行きは白河街道であったが帰り道はこの大内の宿を通る会津西街道ルートだったという。


では、幕末及び戊辰戦争の頃の大内宿はどうだったんだろうか・・?



先ず、吉田松陰は江戸遊学中、幕末(1852年)に東北地方の見聞からの帰路会津から会津西街道の「大内宿」、その後、山王峠を越えて日光経由で江戸表へ出ている。
だが、松蔭が何時頃大内宿を訪ね、どの宿へ投宿したかは定かでない。

吉田松陰」については、小生、「日本周遊記」において山口県、長州・「萩」の項で記しているが、江戸末期、尊王攘夷論者で有名な「吉田松陰」は幕末革命の先駆者であった。 
だが、松陰が存命であったなら戊辰戦争や会津藩をどのように捉えただろうか・・?、いずれにしても、その後輩たちによって会津は「こっぴどいめ」あわされるのである・・!。


幕末の松蔭は、自国・長州萩を「脱藩」して江戸、そして東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
つまり、松蔭は細長い本州列島の西端から北端までを縦断しているのである。
その時の旅の様子を表したのが見聞記・「東北遊日記」である。
 


蛇足ながら、松蔭の「東北旅日記」の一端を記してみよう。

吉田松蔭は兵学修行のため長州から江戸に始めて訪れ、更に、本州の北端にまで遊学している。 
その時期はペリーが艦隊を率いて浦賀に現れる2年前の事であり、この時に松代藩の佐久間象山に師事している。 


松蔭の学問の主目的は、戦術や戦略であるが儒学や洋学をも学び、学問の本当の目的は「知識」ではなく「」を得る事にあると既に喝破している。 
松蔭の言葉に、「 井戸は、深く掘るか浅く掘るかは問題でなく、水の量が問題なのである、学問は一生ささげるべき対象であるが、道を得られたかどうかが問題なり 」、との思考が一貫していた。

 遊学中の江戸にて、数人の友人を得るが、20歳そこそこの松蔭が一番若く、他は皆先輩達であり、会話の中でも大概は「聞き役」であったという。 
友人達が松蔭を評するに「 いつも必要な事しか口にせず、一言発する時は必ず「温然和気、婦人好女の如し、是が松蔭の気迫の源なり 」と。


東北見聞旅行をしたのは江戸遊学の途、松蔭は21歳の時である。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談じ、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見聞することに真剣であった。 

疲れを知らぬ若さで、厳冬の時期にもかかわらず短い間に驚くほどの距離を踏破している。 
水戸、会津、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、平泉、仙台、米沢、日光などであり、松蔭は行く先々でその地域である国勢(藩勢)、地勢、人柄等を調べている。


最北の地・津軽を訪れた時、蝦夷・松前を望む海峡付近で、外国船が我が者顔に往来航行していた。 
攘夷思想家の松蔭は、「 何故こんなことが許されているのか・・! 」、 又、 竜飛崎近くのアイヌの集落では、日本人商人が彼等を牛馬並みの扱いをしているのを見て、人間味豊かな松蔭は、「 習慣や風俗が違っても同じ人間ではないのか・・」と、いずれも怒りを顕わにしている。


東北では関所を通るのに金が必要なのにも驚いていて、時折、理屈をこねて役人と喧嘩もしたが、米沢藩では入国者を調べはするが、金品は必要としなかったといい、「 さすがに東北を代表する雄藩と称することはある」と感心している。


その旅は苦労の連続であったが、安らぎの一時もあったらしい。
特に本州最北の地、津軽の十三潟(十三湖)を眼前にしたとき初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという。 
そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野が知恵や見識、勇気を与えてくれたことも察していたのである。

松蔭は、外国を含めた対外事情を見聞、経験するに従って、洞察力を見に付け「人は学識を広めてから旅をするというが一般的であるが、松蔭にしてみれば、「 旅をして学識を広める 」とも思えたのであろう。 

旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
記録によれば、江戸を出発(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─(会津西街道・大内宿)―今市─日光─足利─江戸(4月5日)。

江戸に戻ったのは嘉永5(1852)年4月5日であった。 


次回、「大内宿と戊辰戦争



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




スポンサーサイト

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

旅と登山の検索コーナー
カスタム検索(サイトに合わせた検索結果を表示)
FC2カウンター
本文関連情報
本文関連情報
関連情報
最新記事
カテゴリ
プロフィール

mo

Author:mo
【小生の旅のリンク集】・・・

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
FC2ブログ   
C・掲示板   
FC2 H・P   
gooブログ    
yahooブログ 


《旅の紀行・記録集》・・・

「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・

【日本の世界遺産紀行】・・ 
北海道・知床・・  
白神山地・・ 
紀伊山地の霊場と参詣道・・ 
安芸の宮島・厳島神社・・  
石見銀山遺跡とその文化的景観・・ 

ハワイ旅行2007・・
沖縄旅行2008・・
北海道道北旅行・・
北海道旅行2005・・
南紀旅行2002・・

【山行記】・・・
《山の紀行・記録集》・・・

「山行リスト」 ・・
白馬連峰登頂記(2004・8月)・・
八ヶ岳(1966年)・・
南ア・北岳(1969年)・・
北ア・槍-穂高(1968年)・・
谷川岳(1967年)・・
丹沢山(1969年)・・
西丹沢・大室山(1969年)・・
八ヶ岳越年登山(1969年)・・
西丹沢・檜洞丸(1970年)・・
丹沢、山迷記(1970年)・・
上高地・明神(2008年)・・

《山のエッセイ》・・・
「上高地雑感」・・
「上越国境・谷川岳」・・
「丹沢山塊」・・
「大菩薩峠」・・

《スキーの記録》・・・
「スキー履歴」・・  

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。